- アンハルト=アッシャースレーベン侯領
- Fürstentum Anhalt-Aschersleben
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1252年 - 1315年
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(国旗)
| (国章)
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アンハルト=アッシャースレーベン(茶色上部)-
首都
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アッシャースレーベン
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侯爵
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1252年 - 1267年
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ハインリヒ2世
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1304年 - 1315年 | オットー2世
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- 変遷
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アンハルトから分離
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1252年
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ハルバーシュタット司教により占領 | 1315年
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司教座の世俗化によりブランデンブルクの領有となる | 1648年
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アンハルト=アッシャースレーベン侯領(Fürstentum Anhalt-Aschersleben)は、現在のザクセン=アンハルト州のアッシャースレーベンに居を構えたアスカン家が統治した神聖ローマ帝国の侯領の一つ。1252年から1315年にかけてアンハルト侯領の一部として成立した。
歴史
1252年にアンハルト侯領が分割され、アンハルト=アッシャースレーベン、アンハルト=ベルンブルク、アンハルト=ツェルプストの各侯領が創設された。ハインリヒ1世の長男ハインリヒ2世は[1]、1244年より父親の共同統治者であった。分割の過程で、ハインリヒ2世はハルツ山脈の北、アッシャースレーベンに居を構え、1266年にアッシャースレーベンに都市特権を与えた。
1315年にハインリヒの孫オットー2世が男子相続人を残さずに亡くなると、首都アッシャースレーベンを含む侯領はオットー2世の父の従兄弟で債権者のハルバーシュタット司教アルブレヒトにより領地として接収された[2]。1年後、アンハルト=ベルンブルク公ベルンハルト2世はハルバーシュタットの領有を認めたが、アッシャースレーベンはベルンハルト2世の後継者とハルバーシュタット司教の間でしばしば紛争の原因となった。それにもかかわらず、司教区の一部にとどまり、1648年にハルバーシュタット侯領として世俗化され、アンハルト=アッシャースレーベンを含む領地はブランデンブルク=プロイセンに与えられた。
歴代侯爵
- ハインリヒ2世(1252年 - 1266年)
- オットー1世(1266年 - 1304年)
- ハインリヒ3世(1266年 - 1283年) - 共同統治
- オットー2世(1304年 - 1315年)
脚注