1890年の時点でブエノスアイレス英語学校、セント・アンデレ・スコッツ学校、フローレス学校、フローレス英語学校、オールド・カレドニアンズFC、セント・ジョン[要曖昧さ回避]FC、スコッチ・クラブ、ブエノス・アイレスFCなど多くの組織が試合を行っていたが、ブエノスアイレスのサッカークラブはいかなる協会にも組織されていなかった。1891年、セント・アンデレのアレク・ラモントがアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ(Argentine Association Football League、AAFL)を設立し、セント・アンドレ・スコッツ学校、オールド・カレドニアンズ、ブエノスアイレス・ロサリオ鉄道、ベルグラーノFC、ブエノス・アイレスFCの5クラブが登録。この新しい大会は酷く批判され、ほとんどのクラブに参加を拒否されたが[3]、タイトルはセント・アンデレに与えられた。AAFLは1891年シーズン終了後に解散したため、1892年にはリーグ戦が開催されなかった。
1893年2月21日、ハットン博士は同名(Argentine Association Football League、AAFL)の新しいサッカーリーグを設立して会長に就任した。このサッカーリーグはアルゼンチンサッカー協会(AFA)の前身とみなされている。1893年シーズンには、ローマスAC、フローレスAC(Flores Athletic Club)、キルメス・ローワーズ(Quilmes Rowers)、ブエノスアイレス英語学校、ロサリオ鉄道の5クラブが参加した。大会終了後、ローマスACがアルゼンチンサッカーの歴史上初のチャンピオンとなった。
アトレティック・クルブの設立
ブエノスアイレス英語学校のチーム(1899年)
1898年、アルゼンチンの法務大臣と文部大臣は、すべての公立学校の教育課程に体育が必須であると定めた。この指導要領ではさらに、全ての学校は在校生や卒業生のためのスポーツクラブを設立しなければならないと定めていた。これらの理由により、1898年10月3日、CAイングリッシュ・ハイスクール(Club Atlético English High School、後にアルムニACに改名)が設立された。最初のグラウンドは近隣のコグラン地区に設けられ、そこで練習が行われた[3][4]。
1904年、クルブ・バラカス・セントラルは、アルムニのユニフォームカラ―に基づく赤色と白色のユニフォームを採用。1906年にはエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタがアルムニに倣って赤色と白色のユニフォームを採用し、1907年にはCAウニオンも同調した。アルムニACに敬意を表して名付けられたCAアルムニ(Club Atlético Alumni)というクラブがコルドバ州、ビリャ・マリアに存在する。1910年4月10日、リーベル・プレートFCは水色のユニフォームを着てアルムニに2-1で勝利した。これにより、ウルグアイ代表はユニフォームカラ―に水色を採用。それまでのウルグアイ代表はアルゼンチン代表に似通ったユニフォームを着ていた。