アルブレヒト3世のシール
アルブレヒト3世 (Albrecht III., Kurfürst von Sachsen, 1375 /80年 - 1422年 11月12日 以前)は、ザクセン=ヴィッテンベルク 公でザクセン選帝侯 および神聖ローマ帝国 の国家元帥(Erzmarschall)(在位:1419年 - 1422年)。アルブレヒト3世の死により、アスカニア家 のザクセン=ヴィッテンベルク公家は断絶した。
生涯
アルブレヒトは、ザクセン選帝侯ヴェンツェル とツェツィーリエ・ダ・カッラーラとの間の末息子である。父ヴェンツェルが1388年 に死去した時、その領地と地位は長兄ルドルフ3世 が継承した。1419年 に兄ルドルフ3世が毒殺されたが、兄には男子継承者がいなかったためアルブレヒト3世が公領と選帝侯位を継承した。継承後、アルブレヒトはこれまでの多くの戦争で領地が疲弊し、国庫が空であるとわかった。このためアルブレヒトは召使を満足に雇うことができず、非常に孤独な一生を送り、「アルブレヒト貧乏公」と言われた。収入を増やすため、1421年 にアルブレヒトはヴィッテンベルク の町と市場の地代を巡って争った。この権利は町が何代にもわたって保持してきたものであり、アルブレヒトは市民と軍事衝突を起こした。最終的に、ブランデンブルク選帝侯 フリードリヒ1世 が仲裁に入った。フリードリヒ1世は、統治者であるアルブレヒトに対する市民の行いは適切ではないと判断したが、アルブレヒトへの謝罪を条件に、権利を市民に与えるとした。統治3年目に、アンナブルガー・ハイデ (ドイツ語版 ) で妻と夜に狩猟をし、その後滞在した農家で火事にあった後、アルブレヒトは死去した。火事の炎は夫妻のすぐ近くまで迫り、夫妻は夜着のまま窓から何とか逃げることができたが、何人かの召使が火事で死んだ。アルブレヒトはこの火事で大きなショックを受け、数日後にヴィッテンベルクで死去し、ブランシスコ会教会に埋葬された。
アルブレヒトには子がなく、アスカニア家のザクセン=ヴィッテンベルク公家はアルブレヒトの死により断絶した。ザクセン=ヴィッテンベルク公領と選帝侯位は1423年 に、ヴェッティン家 のマイセン辺境伯 フリードリヒ1世 に与えられた。
結婚
1420年 1月14日 、オレシニツァ公 コンラト3世スタルィ の娘エウフェミアと結婚したが、2人の間に子はなかった。エウフェミアは1422年、アルブレヒトの死後にリーベンヴェルダの城を寡婦財産として受け取り、1432年 にアンハルト=デッサウ侯ゲオルク1世と再婚した。
参考文献
Heinrich Kühne: Die Askanier. Aus der Geschichte der sächsisch-askanischen Herzöge und Kurfürsten von Sachsen-Wittenberg (1180-1422). Drei Kastanien Verlag, Wittenberg 1999, ISBN 3933028140 .
外部リンク