最初の製品の正式名称は「IBM DOS J4.0/V」で、並存したPS/55専用の「IBM DOS J4.0」(通称 JDOS)と比較すると製品名に「/V」が追加された。このため日本IBM社内では当初は「スラブイ」とも呼ばれたが、当時のパソコン通信のNIFTYや日経MIXなどのネットワーカーなどを中心に「DOS/V」との通称が普及し定着した。「V」は当初はビデオ表示規格のVGA(最大画面解像度は640×480ピクセル)を意味したため、DOS/V初期の日本IBMのインタビューや資料には「XGA(最大画面解像度が1024×768)対応のDOS/X、モバイル端末用のCGA対応のDOS/C」などの用語も見られた。また「V」は「Victory」との解釈、「DOS/V」を「DOSバージョン5」と誤解する例もあった。その後に日本IBMが「DOS/Vは登録商標にしない、自由に使用して欲しい」と宣言した事もあり[要出典]「DOS/V」の通称は広く普及した。後にDOS/V上で複数の画面解像度を実現するV-Textや、各種SVGAサポートも追加され、日本IBMでDOS/Vを主導した堀田一芙は雑誌インタビューなどで「VはVariable(可変)などと解釈してください」と説明した。
1990年10月、日本IBMがPS/55シリーズ[注 1]で初めてVGAのみを搭載した機種(ラップトップ2代目である5535-S)と、それに対応したOS「IBM DOS バージョンJ4.0/V」を発表した[10]。これがDOS/Vの最初のバージョンになった。DOS/V登場時のマイナーバージョンは「J4.05/V」だった。しかし他のPS/55の画面解像度の主流は1024×768ピクセル、初代ラップトップは720×512なのに対して5535-Sは640×480のVGAであるなど、「低スペックで互換性の低い専用OS」と思われ、マスコミでも雑誌でもほとんど注目されなかった。
日本IBMはPS/55note(後のThinkPad)などDOS/V対象機を拡大し国産各社にもDOS/Vの採用を働きかけたが、大半のメーカーは従来通りマイクロソフトからの提供を希望した。しかしマイクロソフトは当時既にOS/2やMicrosoft Windows NTなどをめぐりIBMとは競合関係にあり、マイクロソフト版DOS/Vを当初はAXベースで三洋電機と開発・テストした。これはソフトウェアのみで日本語表示を実現する事はIBM版と同じだが「AXとの互換性確保のためにIBM版とは互換性が無く、フック多用のため日本語表示性能が大幅に低い」という非公式情報が流れたため、雑誌やパソコン通信では署名活動などの反対運動が起き、この開発は中止された。後に、これとは別にAX VGA/Sがリリースされた。
1991年から1993年にかけて、NECを除く国産各社はDOS/Vに移行した。東芝やAX陣営はオプションでDOS/V環境を用意することから始まり、やがて主力を純粋なDOS/V機に移行[14]。また、富士通、エプソンダイレクト、プロサイドなどがOADGへの参加を表明してDOS/V機を発売。並行して台湾のマイタック、ASTリサーチ、コンパック、デル、ゲートウェイなどの外資系各社もDOS/Vを搭載して日本市場に本格参入した。特にコンパックの低価格マシン投入は「コンパックショック」とも呼ばれ、FMVは標準搭載ソフトの多さと割安感でシェアを拡大した。またIBMはDOS/V専用シリーズのPS/V(後のAptiva)、セガはメガドライブとの両互換機であるテラドライブを発売した。NECは、それからもPC-9800シリーズ(および派生機種)の開発・販売を続け、とうとうDOS/V対応機を国内販売しなかった。国内向けをPC/AT互換機系列であるPC98-NXシリーズに移行したのは、のちのWindows 9xの時代であり、サーバーのExpress5800シリーズにPC/AT互換機系列の機種を投入したのもWindows NTの時代になってからである。前者の派生機種であるFC98-NXの一部機種でPC DOS 2000の動作を保障している例外を除き、両シリーズともDOS/Vでの動作を保障していない。
秋葉原では、従来はPC/AT互換機の一般向けの輸入・組立販売店は小規模店舗が少数だったが、DOS/V搭載の「DOS/V機」を販売する「DOS/Vショップ」が増加した。DOS/VやAT互換機を中心記事としたDOS/Vマガジン、PC WAVE、DOS/V POWER REPORTなどの雑誌も創刊されて、付録のCD-ROMではDOS/Vの修正モジュール、ドライバー、オンラインソフト、次期バージョンのβ版なども配布された。また1992年にIBMが発表したOS/2 J2.0には、日本語版のDOS互換環境にDOS/Vが含まれ、後にはV-Textにも対応した。
DOS/Vが成功した背景には、当時のPC/AT互換機の内外価格差(80486-33MHz搭載で日本の半額以下など)、各社SVGAなど高速・高解像度なビデオカードの普及、Microsoft Windows 3.xの普及時期、日本IBMのオープン路線(他社PC/AT互換機への対応、OADG設立など)、IBM版と互換性の高いマイクロソフト版DOS/Vの出荷、NEC以外の国産各社の動向(独自でのPC-9800シリーズへの巻き返し困難、独自仕様マシンの今後のWindowsサポート不安[注 2]、内外二重投資の回避)などが重なった事が挙げられる。
なお、1995年のMicrosoft Windows 95以降では単体のDOSを必要としなくなり、一部の携帯情報端末や制御機器を除きDOS/Vを含めたDOSは主流の座を降りた。DOS/Vを含めたDOS全体で、マイクロソフト版は1993年出荷の「MS-DOS 6.2/V」、IBM版は1998年出荷の「PC DOS 2000」が最終バージョンとなった。しかしMicrosoft Windows 32bit版各バージョン日本語版のコマンドプロンプトで使用されている日本語表示規格は現在でもDOS/Vであり、DOS/V対応のソフトウェアがほぼ稼働する。但し64bit版Windowsでは仕様上DOS対応のソフトウェアには対応しないため、DOS/V対応のソフトウェアも動作しない。またFreeDOSの日本語化の動きとして「FreeDOS/V」が存在する。
以下は、DOS/Vの登場時の考え方である。PS/55は80286とプロテクトメモリと1.44MのFDD、VGAが標準で搭載されているPS/2を拡張したパーソナルコンピュータである。そして、当時、最低限表示出来なければならなかった漢字はJIS第一水準の2965文字とJIS第二水準3388文字で、これらを合わせても漢字フォントのサイズは(16dotフォントの場合)高々215KBである。この程度のサイズであればPC DOS 4.0では積極的に利用されていないプロテクトメモリを漢字ROMの代替に用いることは容易である。さらに、ROMよりRAMの方がアクセス速度が高速であるため漢字ROMからグラフィックVRAMへ表示するよりも高速に行える。(しかし前記のようにPC-9800シリーズ等では、漢字ROMからVRAMへの展開は専用ハードウェアが行ってくれるため、CPUの負荷が格段に軽く実際は高速だった。漢字1文字を表示する場合に、ハードウェア方式ではCPUはテキストVRAMに2バイトの値を書き込むだけでいいが、DOS/Vでは16dotフォントで256色モードの場合、256バイトものデータをグラフィックVRAMに書き込む必要があった。)
DOS/Vでは補助記憶装置に置かれた漢字フォントを格納したフォントファイルを起動時にデバイスドライバによりプロテクトメモリ領域に展開し、漢字表示時にそれをグラフィックVRAM領域に転送する方式を取っている。また、デバイスドライバ組み込み時に適切なフォントとキャラクタ番号を指定することで、論理的には全ての文字記号を表示可能である。ただしこのメモリ確保は当初はBIOSのINT 15h手順によるものだったため仮想86モードを使用するVCPIやDPMIとの相性が極端に悪く、FONTXやDOS/Vスーパードライバーズ(後述)、PC DOS J6.1/VでXMSインターフェイスに対応したことで解消された。
Windows 3.xの普及に伴い、CPUの能力も格段に進歩していった。また、Windowsが必要とする各GDI命令に対応したハードウェアアクセラレート機能を持つグラフィックアクセラレータが必要とされ、需要が盛んになるにつれてグラフィックアクセラレーターの飛躍的な進歩が始まった。それを用いて、DOS上でプログラムを組んで直接操作することによってより高速な動作を引き出そうとした。CPU側の処理能力は充分なものとなり、多少の煩雑な処理は高速スクロールにおいて人間の持つ動体視力を上回ることにおいて問題とならなくなった。グラフィックアクセラレーターに含まれる多彩な機能の内、主にBitBltとハードウェアスクロール機能が用いられた。例えば重ね合わせとスクロールをグラフィックアクセラレーターによって高速に行う機能が追加され、結果、スクロール速度においてPC-9801よりも高速なスクロールを実現したケースも生まれた。
だが、Windowsの普及に伴ってグラフィックアクセラレーターの開発競争が生じ、多数のグラフィックアクセラレータが各メーカーから発売されることとなった。結果、各メーカーの参入と撤退が激しくなった。
DR DOS 6.0/V (DR-DOSのDOS/V版。後継の Novell DOS 7 にはDOS/V版は存在しない。)
上記の他、当初はコンパック版や、AX規格のキーボードやJEGAボードに対するドライバが追加されたソニー版のDOS/Vもあった。またPS/55専用の「IBM DOS J5.0」(「/V」が付かない、通称JDOS)も、5.0以降ではDOS/Vモジュールを含み切り替えて使う事ができたが、インストールはPS/55専用の「日本語ディスプレイアダプタ」を必要とした。
DOS/V登場時、IBMとマイクロソフトは本社を置く米国では関係が悪化していたが、日本IBMはIBM版の日本語Windowsへの積極的な対応など本国とは違う独自の動きを行っており、DOS/Vを実現するドライバをマイクロソフトに供給し、マイクロソフト版DOS/Vのベースとなった。しかし、IBM版とマイクロソフト版は日英の言語切り替え機能(切り替えコマンドの構文)に関して互換性がない。また、PC DOS J6.1/VとMS-DOS 6.2/Vの開発で日本IBMとマイクロソフトは別々に改良作業を行い、ユーティリティやV-Textへの対応などに違いが見られる。例えば、MS-DOS 6.2/VではISO 9660規格で先頭に「$」が使えないという理由で、ディスプレイドライバのファイル名が「$DISP.SYS」から「JDISP.SYS」に変更されている[23]。PC DOS 2000は、いわゆる2000年問題の対応版だが、これがMS-DOSおよびPC DOS全体の最終版となり、2002年にはサポートも終了した。各バージョン間の相違はMS-DOSを参照。