黎裕宗(れいゆうそう、レ・ズトン、ベトナム語:Lê Dụ Tông / 黎裕宗)は、後黎朝大越中興期(中国語版)の第24代皇帝。名は黎 維禟(レ・ズイ・カップ、ベトナム語:Lê Duy Cáp / 黎維禟)[1]、または黎 維祹(レ・ズイ・ダオ、ベトナム語:Lê Duy Đào / 黎維祹)[2]とも。
生涯
熙宗の長男。正和26年(1705年)、父帝から譲位されて26歳で即位した[3]。永盛8年(1712年)にキリスト教の布教を禁止した。永盛15年(1719年)12月、清から遣わされた内閣中書(中国語版)の鄧廷喆より安南国王(中国語版)に封じられた[1][2]。保泰4年(1723年)に科挙で初めて武挙(中国語版)を設けた[1]。
保泰10年4月21日(1729年5月18日)に安都王鄭棡から脅迫を受けて、次男の皇太子黎維祊に譲位して太上皇となった[1]。永慶3年1月21日(1731年2月27日)に52歳で崩じ、古都陵(現在のタインホア省ティエウホア県ティエウド社(ベトナム語版))に葬られた。後に雷陽(ベトナム語版)の金石陵(現在のタインホア省トースアン県トースアン市鎮(ベトナム語版))に改葬された。1968年に北ベトナムの考古学チームによる発掘調査が行われ、遺体の状態は良好で多くの服飾品が出土した。
出典
- ^ a b c d 『大越史記全書』続編巻之二 黎紀 裕宗和皇帝
- ^ a b 『清史稿』巻五百二十七 列伝三百十四 属国二 越南
- ^ 『大越史記全書』続編巻之一 黎紀 熙宗章皇帝
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永盛年間に鋳造された永盛通宝
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保泰年間に鋳造された保泰通宝