高森 顕徹(たかもり けんてつ、1929年 - )は、富山県生まれの宗教家。浄土真宗親鸞会(以下親鸞会)の創設者・会長。龍谷大学卒業。
著書は一部を除き、株式会社1万年堂出版から出版され、東本願寺系列の法蔵館書店でも購入可能[1] である。
人物
1929年(昭和4年)、富山県で誕生[2]。
敗戦後まもない混乱期より、日本各地で情熱的な布教を展開[3]。
1952年(昭和27年)に親鸞会の前身である「徹信会」を結成[3]。
1958年(昭和33年)に「徹信会」を「浄土真宗親鸞会」に改める[3]。
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人(1173-1263)の教えを、70年にわたり伝え続けている[2]。
日本各地だけではなく、海外でも講演を開催[2]。
著書も多数。監修の『なぜ生きる』は、平成28年にシリーズ100万部を突破し代表的な著書となっている。映画化もされ、「なぜ生きる~蓮如上人と吉崎炎上」は全国ロードショーとなった[2]。
現在は、日本海の見える富山県の小さな町に、愛妻と愛犬と共に暮らしている[2]。
親鸞会の歩みについては当該記事を参照のこと。
親鸞聖人の教えとの出会い
英訳『歎異抄をひらく』の序文に、次のように書かれている。
1944年の春、16歳の時、私は志願して日本の軍隊に入り、戦闘機パイロットとして訓練を受けた。
戦争が終わる数カ月前、私はまだ10代であったが、先輩たちは次から次へと、爆発物を積み込み、片道の燃料を積み込んだ飛行機で飛び立っていった。連合国の軍艦や航空母艦に自らの機体を体当たりさせよとの命令であったが、それは勝つ見込みのない戦争への、絶望的なあがきであった。
神風パイロットに課せられたのは、常に打たれ、服従し、死ぬためだけの訓練であり、それは残酷かつ野蛮なものであった。自らの命を投げ出すことは、大きな名誉であると教えられ、自己の命の犠牲で、国を救い天皇に尽くすのみならず、不朽の命をうることができるのだと洗脳された。若かった私の名前はリストにはなかったが、順番が来るのは時間の問題であった。心の底ではしかし、私は生きることを天に祈った。同志たちが皆そうであったように。
近く死ぬ運命にあったパイロットたちは、この絶望的な状況にあって、必死になって意義を見いだそうとした。死地に送られる最後の飛行に、彼らが唯一の道連れにと選び、携えていったのは、『歎異抄』という本であり、親鸞聖人(しんらんしょうにん)のメッセージであった。
戦争が終わり、幸いにも生きながらえた私は、あの小さな本の偉大な教えに注目するようになった。
親鸞聖人の教えとの出会いは、私の人生を大変換させ、私は新たな目的に満たされた。友達も私も、命を投げ捨てることは美しいのだと教えこまれ、だまされてきたことを思うと今でも私は怒りに震えずにおれない。しかし、真実を知ることのできた私は、言葉にできないほどの幸せを感ずるのである。あの若者たちの希望のない暗黒の旅路に、明るい希望の光を与えた不滅の真理を、自ら深く知り、人と分かち合うことに、私は残りの人生を捧げてきた。
— 月刊人生の目的、公式サイト[4]
浄土真宗親鸞会結成の目的
「親鸞聖人の教えを、正確に、速やかに、一人でも多くの人にお伝えする、これ以外に親鸞会の目的はありません。今後もそれは変わりません。どうすれば本当の親鸞聖人の教えが明らかにできるか、親鸞会の目的は、ただこのこと一つであって他には何もありません」(平成10年10月:浄土真宗親鸞会結成40周年記念講演より)[5]。
著書
脚注
外部リンク