プロイセン王国の新しい地図 、ジョン・カリー (英語版 ) 作、1799年。
露普同盟 (ろふどうめい、英語 : Russo-Prussian alliance )は、1764年 4月11日 にプロイセン王国 とロシア帝国 の間で締結された同盟。同盟は七年戦争 における二国間の講和条約である1762年のサンクトペテルブルク条約 を拡張した。同盟は防御同盟であり、両国はお互いの領土の安定を守ることを宣言した。また条約は両国のポーランド・リトアニア共和国 への干渉を許可したが、これは条約の主な目的であった。
同盟の成立と目的
露普同盟の功労者であるニキータ・パーニン の肖像画、版画 、1792年作。
条約はロシアの外交官ニキータ・イヴァノヴィチ・パーニン によるものだった[1] 。同盟は七年戦争 における二国間の講和条約である1762年のサンクトペテルブルク条約 を拡張した[1] 。1764年4月11日に締結されたこの条約はロシア政治における「北方システム」、すなわちロシア、プロイセン、グレートブリテン王国 の間の同盟の基礎となった[1] 。当時、英普同盟 は崩壊したが[2] 、グレートブリテンとロシアの関係は改善しており、1766年には貿易の同盟が結成された[1] 。
同盟は防御同盟であり、両国はお互いの領土の安定を守ることを宣言した[3] 。プロイセンにとって、これは国際関係において最も危険な敵を同盟国に変えることであり、大事な安定感を与えた[4] 。同盟はハプスブルク帝国 (オーストリア)への対抗という一面もあった[1] [4] 。ロシアの視点からは、オーストリアはロシアの勢力範囲の拡大においてあまり譲歩に前向きではなく、同盟者としての価値がプロイセンより低かった[2] 。歴史家の一部は、ロシアが同盟を主導することで、七年戦争 の目的であったプロイセンに対する影響力の拡大を達成することができた、と主張したが[2] 、ロシアがプロイセンを格下の同盟国として扱ったにもかかわらず、同盟はプロイセンの外交上の勝利であるとする歴史家もいる[5] 。プロイセン王フリードリヒ2世 は死の直前、露普同盟が彼の締結した条約のうち、一番有益な条約であると述べた[6] 。
条約の重要な条項の1つは、両国が協同してヴェッティン家 (ザクセン選帝侯 の一族)がポーランド・リトアニア共和国 の国王自由選挙 で三たび当選することを阻止する、というものだった[7] 。両国は同年の国王選挙 (英語版 ) でスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ を支持、当選させた[3] 。条約はポーランドで両国の許可を得ていない改革が行われた場合、介入を許す条項を含む[8] 。実際、両国はオーストリアとともにバール連盟戦争 に介入、1772年の第一次ポーランド分割 を起こした[9] 。
同盟の解消とその後
ロシアとオーストリアの接近を推進したグリゴリー・ポチョムキン の肖像画、1847年作。
しかし、その後の数十年間、ロシアの注目は徐々に南方のオスマン帝国 に移っていった[7] 。グリゴリー・ポチョムキン が推進したこの政策により、プロイセンの同盟国としての価値は減り、代わりにオーストリアの株が上がった[7] 。露普同盟は1777年に再度延長されたが、サンクトペテルブルク の宮廷ではパーニンなどの親プロイセン派の影響力が目減りし、ポチョムキンなどの親オーストリア派が徐々に影響力を増していった[7] 。マリア・テレジア の死後、息子のヨーゼフ2世 はロシアとの関係の改善を選び、1781年初に秘密交渉をはじめ、同年5月から6月頃には墺露同盟 が成立するに至った[7] 。露普同盟は正式には1788年まで存続したが、墺露同盟が成立した以降はその重要性を失い、プロイセンがヨーロッパで孤立した[7] 。プロイセンは代わりに英普同盟 を再び締結した[7] 。パーニンが述べた通り、露普同盟の崩壊は彼の政治生命の終結を意味した[4] [6] 。
脚注
参考文献
H.M. Scott, Frederick II, the Ottoman Empire and the Origins of the Russo–Prussian Alliance of April 1764 , European History Quarterly, April 1977, vol. 7, pp. 153–175, doi :10.1177/026569147700700202 , [1]
関連項目