霊王(れいおう)は、中国の春秋時代の楚の王。姓は羋、氏は熊。諱は囲、のちに虔と改名した。共王の次男。
生涯
父共王の死後、王位は長兄の康王が継いでいた。康王の死後はその息子の郟敖が継いでおり、熊囲はその令尹となって補佐していたが、郟敖4年(紀元前541年)に郟敖を殺害して自ら王として即位した。主に勢力拡大に従事し、諸侯と会盟して呉を討った。
霊王8年(紀元前533年)に陳を、霊王10年(紀元前531年)に蔡を討った。その後も徐、次いでまた呉を討つなどして楚の勢力を拡大した。しかし、連年の戦役は臣民に多大な負担を強いた。このため臣民の心は霊王のもとから離れ、公子の熊比・熊黒肱(子皙)・熊弃疾ら(3人とも霊王の弟)は反対派を結成し、霊王12年(紀元前529年)に霊王が軍を率いて都の郢を留守にするとクーデターを決行。留守を預かっていた霊王の太子である熊禄を殺害した。このクーデターを知って霊王の楚軍は一気に崩壊し、霊王は山中をさまよいながら死んだ。
死後、王位はクーデターで中心的な役割を果たした熊比こと訾敖が継いだが、弟の熊弃疾が再度クーデターを起こして兄たちを排除し、彼が平王として即位した。
家庭
父親:
兄弟:
- 康王(熊招、第8代楚王)
- 訾敖(熊比、第11代楚王)
- 熊黒肱(子皙、令尹, zh)
- 平王(熊弃疾、第12代楚王)
子:
脚注
- ^ 『春秋左氏伝』昭公十三年五月癸亥条による。
参考文献