阿漕焼(あこぎやき)は、三重県津市で焼かれる陶器。名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。三重県指定伝統工芸品。
歴史
阿漕焼の元祖は、萬古焼の祖 沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる[1][2]。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた[1]。このため、当初は「安東焼」といわれたが[1][2]、10年程度で途絶えた[2]。嘉永年間(1848~54年)、津藩が陶芸家の倉田久八に再興を命じて復活する[2]。安東村観音寺から船頭町へ移転して「御納戸焼」とも呼ばれた[1]。明治時代に入ると、藤堂藩からの支援がなくなり、常用食器を制作するようになる[1]。この頃から阿漕浦に因んで「阿漕焼」と呼ばれるようになった[1]。1890年までに廃窯した[1]。
一方で、船頭町の廃窯の頃、贄崎で土手阿漕が操業を開始し、「阿漕」の窯印が広く用いられるようになった[1]。しかし、土手阿漕も1897年頃に解散する[1]。その後、会社阿漕(1901 - 05年)、小島阿漕(1905 - 1909年)、上島阿漕(1907 - 1922年)、重富阿漕(1922 - 1926年)、福森阿漕(1931年 - )と、いくつもの窯が衰退と復興を繰り返した[1]。
昭和になって、津市長堀川美哉は萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図った。当初は厳しい経営が続いていたが、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、阿漕焼は再興を果たした。
器自体は萬古焼の流れを汲みながら、九谷焼のような絵付けを施すのが特徴。朱や緑、黄色、紫、紺青など艶やかな色彩を巧みに用いる。また、時代によって様々な形態が見られる。
主な作品
出典
- ^ a b c d e f g h i j “阿漕焼”. www.bunka.pref.mie.lg.jp. 三重県環境生活部文化振興課歴史公文書班. 2025年1月7日閲覧。
- ^ a b c d “<津一之商店物語> (30)興亡を繰り返した津の名産 阿漕焼:中日新聞Web”. 中日新聞Web. 2025年1月7日閲覧。