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金 哲彦(きん てつひこ、1964年2月1日 - )は、在日韓国人の元陸上競技選手、陸上競技・駅伝解説者、マラソン中継リポーター。NPO法人ニッポンランナーズファウンダー、元日本陸上競技連盟女子長距離マラソン強化部長、元エディオン女子陸上競技部ゼネラルマネジャー、元東京経済大学陸上競技部アドバイザリーコーチ、ライツネットワークメンバー。作家の高史明は叔父、実兄の木下和彦はフランス料理店「レストラン・キノシタ」のオーナーシェフ。
来歴
福岡県北九州市門司区出身。かつては日本名(通名)の「木下 哲彦」を名乗っていたが、大学卒業時に現在の韓国名に改称した。名前は韓国語読みでは「キム・チョロン(김철언)」となるが、日本語読みにしている。
中学校は北九州市立緑丘中学校出身。八幡大学付属高等学校(現在の九州国際大学付属高等学校)在学時、1・2年次には目立った活躍はなかったが、3年次、高校駅伝福岡県予選では区間賞を獲得。なお、高校の同級生に大東文化大学陸上競技部元監督の只隈伸也がいる。
その後早稲田大学に進み、教育学部卒業。在学中競走部に属し、中村清監督の下、箱根駅伝で活躍。特に上りに強く、5区のスペシャリストとして知られ、4年連続で5区を担当。区間賞を2度獲得するなど抜群の強さをみせ、1984年・1985年には優勝に大きく貢献するなど「山登りの木下」の異名をとった。
卒業後、リクルートに一般社員として入社。リクルートには陸上競技部がなかったため、新たに部を創設した。1987年には別府大分毎日マラソンで3位に入る活躍をみせた。1995年、小出義雄監督の積水化学移籍に伴い、リクルート陸上競技部監督に就任。しかし、2001年に経営の合理化の一環で陸上競技部は消滅した。その後、金は当時日本ではあまり一般的でなかった陸上のクラブチーム・ニッポンランナーズを創設。これは、現在のクラブチームブームの嚆矢となった。
2006年、大腸がんを発症し手術。そして翌年には早くもフルマラソンを完走した。
現在は、テレビのマラソン・駅伝中継の大半に規模を問わず顔を出し、解説者としてランナーの立場に立ったコメントを述べている。
また、「生活の質を高める“長く続けられるランニング”」の提唱にも力を入れた、健康に関する活動も行っている[1]。
マラソン成績
回 |
記録 |
順位 |
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大会 |
備考
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1 |
2時間27分39秒 |
42位 |
1983年 |
東京国際 |
|
2 |
2時間12分35秒 |
03位 |
1987年/a |
別府大分毎日 |
|
3 |
2時間15分07秒 |
20位 |
1987年/b |
福岡国際 |
|
4 |
2時間16分07秒 |
18位 |
1988年 |
福岡国際 |
|
5 |
2時間16分55秒 |
03位 |
1989年/a |
東京国際 |
|
6 |
2時間23分40秒 |
42位 |
1989年/b |
ニューヨーク |
|
7 |
途中棄権 |
‐ |
1990年 |
東亜 |
韓国アジア大会選考会
|
8 |
2時間15分16秒 |
18位 |
1991年/a |
東京国際 |
|
9 |
2時間21分38秒 |
00/優勝 |
1991年/b |
デュークシティ (アメリカ) |
|
10 |
2時間17分00秒 |
06位 |
1991年/c |
シカゴ |
|
11 |
2時間11分48秒 |
06位 |
1992年 |
東亜 (春川) |
韓国バルセロナ五輪選考会
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パートナーシップ
- リーボック - 金が提唱するランニング法「体幹ランニング」をサポートする、ランニングシューズ・ウェア「TAIKAN」の共同開発を行う[2]。
- HOKA アンバサダー
著作
関連書籍・DVD
出演
(中継解説は除く)
脚注
外部リンク
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1920年代 | |
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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