郝 鵬(かくほう、1881年-1946年[1])は清末民初の政治家。北京政府、南京国民政府(汪兆銘政権)に属した。字は浴滄。
事跡
山東高等学校を卒業し、奉天の小学堂総監督、留学予備学校教員、中学堂監督を歴任する。その後、湖北省官報局総理、山東省勧業公所農務科科長などをつとめた。中華民国成立後は、北京政府の財政部検事、総務庁庁長を歴任する。1924年(民国13年)12月から1926年(民国15年)1月まで、直隷省財政庁庁長をつとめた。その後、張宗昌の幕僚となり、安徽省省長に任命された。1927年(民国16年)、いったん引退する。[2]
1941年(民国30年)10月、南京国民政府の華北政務委員会で華北河渠委員会委員として任用された。翌年1月、蘇淮特別区行政長官に起用され、3月には蘇淮特別区保安司令も兼任した。1943年(民国32年)9月、国民政府政務参賛に異動した。その後の郝鵬の行方は不詳である。[2]
注
- ^ 江澄 (1946年12月15日). “漢奸郝鵬死於濟南” (中国語). 秋海棠 (22): p. 7
- ^ a b 徐主編(2007)、1006頁。
参考文献