袁 希濤(えん きとう)は、清末民初の政治家・教育者。北京政府で教育総長を務め、また義務教育確立の運動に尽力した。号は観瀾。祖籍は江蘇省宝山県。
事績
上海竜門書院を卒業後、1896年(光緒22年)秋に丙申科挙人となる。翌年、江南製造局に招聘され、広方言館教授となった。1903年(光緒29年)、宝山県において県学堂・蒙学堂(盲学校のこと)を創設した。翌年秋には、日本へ教育事業の視察にも赴いている。この後、復旦公学(後の復旦大学)の創設事業に参加するなど、各地で教育振興事業に携わった。このほか、直隷提学使傅増湘の招聘に応じて、天津で教育事務に就き、また、張相文らとともに地理学会を創設した。辛亥革命が勃発すると、故郷に帰っている。[1]
中華民国が成立した後の1912年(民国元年)5月、袁希濤は北京政府の教育部普通教育司司長などの職に就いた。1915年(民国4年)10月、教育部次長に昇進する。1919年(民国8年)5月、教育総長傅増湘の辞任を受けて、1か月のみ代理総長を務めた。翌月、教育次長を辞職する。それからまもなく、袁は欧美(欧米)教育参観団を組織して、視察の外遊に赴いた。[1]
1921年(民国10年)に帰国すると、袁希濤は江蘇省教育会会長に選任された。また、義務教育期成会の組織につき発起人となった。このほか、郷村師範学校設立を提唱し、義務教育基盤の整備・確立のための運動に従事している。1930年(民国19年)8月29日、上海にて病没。享年65(満63歳)。[1]
著作
- 『游華嶽記』1912年
- 『宝山袁霓孫先生事略』1912年
- 『義務教育之商榷』1921年
- 『義務教育』1929年
注
参考文献