藤田 康邦(ふじた やすくに)は、戦国時代の武将。山内上杉家、後北条氏の家臣。
略歴
当初は山内上杉家に仕え、天神山城を守っていたが、天文15年(1546年)の河越城の戦いの後、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の四男[3]・乙千代丸(氏邦)を幼少から養子として育て、娘の大福御前を娶らせて藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から康邦[4]に改めたのもこの頃とされる。
ただし、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
康邦の子には用土重連や藤田信吉[5]がいたが、彼らは北条氏にとっては邪魔な存在であり、重連は沼田城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。
脚注
- ^ 浅倉直美「側近く仕えて氏康を支えた家臣たち」黒田基樹 編『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年。P73.
- ^ 『管窺武鑑』によると永禄3年(1560年)庚申年8月13日死去。[1]
- ^ 三男、五男という説もあるが、鉢形城歴史館は家系図を展示して四男と記している
- ^ 氏康の「康」と氏邦の「邦」(「邦」については逆に、養子となった乙千代丸に与えて氏邦と名乗らせた可能性もある。)
- ^ 孫説も有り。