藤堂 忠次郎(とうどう ちゅうじろう、慶応3年7月20日(1867年8月19日) - 昭和7年(1932年)2月23日[1])は、日本の教育者。
経歴
京都府出身。中村源七の二男に生まれ、藤堂まさの養子となった。1895年(明治28年)、東京高等師範学校を卒業。宮城県師範学校教諭、東京女子高等師範学校教諭、兵庫県明石女子師範学校校長を歴任し、1909年(明治42年)に奈良女子高等師範学校教授に就任した。退官後の1916年(大正5年)から1921年(大正10年)まで大阪府立梅田高等女学校校長・金蘭会高等女学校校長を務めた[2]。
著書
- 『女子理科 生物学』(吉川弘文館、1900年) 岩川友太郎と共著
- 『女子理科 生理衛生学』(吉川弘文館、1901年) 岩川友太郎と共著
- 『女子理科 新訂鉱物及化学』(吉川弘文館、1902年) 原田長松と共著
脚注
- ^ 『茗渓会七十年史』茗渓会、1952年、99頁。
- ^ 『回顧四十年』金蘭会、1926年。
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。