色部 光長(いろべ みつなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の重臣で米沢藩士。越後平林城主、次いで出羽金山城主。色部長実の子。母は新発田綱貞の娘。色部勝長の孫にあたる。
生涯
天正15年(1587年)に上杉氏の重臣で越後国岩船郡小泉庄平林村(新潟県村上市平林)の平林城主であった色部長真の嫡男として生まれる。文禄元年(1592年)に父・長真が死去したため、幼少で家督を継ぐ。長真の遺言に従って直江兼続の妹(兼続の次女とも)を正室に迎え、元服するまでは後見人となった兼続の助けを借りて家中を治める。
慶長3年(1598年)の会津移封で出羽国置賜郡(山形県南陽市)の金山城主となり、慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦では先陣を任されている。上杉家減封後は置賜郡窪田村(山形県米沢市窪田町)を知行とする。慶長7年(1602年)に元服し、兼続から「綱」の字を貰い綱長と名乗る[2]が、後に改名する。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に従軍。寛永元年1月15日(1624年3月4日)に長門守となり、寛永3年(1626年)11月に侍頭に就任する。寛永17年6月2日(1640年7月20日)没、享年54。家督は養子・利長が相続した。
兼続は光長の後ろ盾として色部氏を重用し、兼続死後も幕末に至るまで、色部氏は米沢藩の重臣として藩を支えていくことになる。子孫に赤穂事件(忠臣蔵)の時に江戸家老を務めていた色部安長(又四郎)や上杉鷹山の藩政改革の折に七家騒動で処分された色部照長(典膳、のち修理)、戊辰戦争の時に米沢藩総督を勤め新潟で戦死した色部久長(長門)らがいる。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
人物・逸話
- 出羽金山城主であったとき、用事で城を訪れた直江兼続をもてなそうと用人に御馳走を出させたところ、兼続はお吸い物に雁が入っているのを見て「雁を入れるのは贅沢だ」と光長に言ってお吸い物には口をつけなかった。その後用人は兼続によって追放された。(『直江兼続101の謎』より)
- 慶長9年10月18日(1604年12月8日)に公家の飛鳥井雅庸から蹴鞠の稽古書と免翰を受け取っている。
脚注
- ^ 『色部文書』文禄元年8月17日(1592年9月22日)付色部長真書状案(長真の遺言状)には「旦那(兼続)御次女申し受け、愚息に契約(婚約)申し度く候」とある。
- ^ 『色部文書』慶長7年12月16日(1603年1月27日)付色部龍松丸宛直江兼続書状に「仮名の事、御所望に任せ、与三郎然るべく候。一字の儀綱の字之れ進じ候。御信用有るべく候。」とある。
参考文献
- 『神林村誌 通史編』(1985年)
- 『神林村誌 資料編 上巻』(1982年)
- 『色部史料集』井上鋭夫(新潟史学会、1968年)
- 『越後国人領主 色部氏史料集』田島光男(神林村教育委員会、1979年)
- 『本庄氏と色部氏』渡辺三省(村上郷土研究グループ、1987年)