舛方 勝宏[注 2](ますかた かつひろ、1943年2月16日 - [注 3])は、日本のアナウンサー、実業家。日本テレビ放送網(NTV)[注 1]でアナウンサーを皮切りに、グループ各社で管理職や役員職を歴任した。富山県魚津市出身[注 4]。富山県立魚津高等学校、早稲田大学第一文学部社会学科卒業[注 5]。
略歴
- 1965年(昭和40年)5月、日本テレビ放送網(旧法人。のちの日本テレビホールディングス)[注 1]へ入社、アナウンス部に配属[注 6]
- 1993年(平成5年)、編成局アナウンス部長[注 7]
- 1997年(平成9年)6月、ネットワーク局長[注 8]
- 2000年(平成12年)6月、執行役員総務局長[注 9]
- 執行役員メディア戦略局CS準備室長[注 10]
- 2001年(平成13年)3月27日、シーエス日本(のちのCS日本[注 11])の設立に伴い、代表取締役社長へ就任[注 12]
- 2003年(平成15年)6月、取締役執行役員人事局長、CS日本代表取締役会長[注 13]
- 2004年(平成16年)6月、取締役常務執行役員[注 14](人事局・総務局・PR局・労政担当)、CS日本代表取締役会長
- 取締役常務執行役員(経営計画室・人事局・総務局・労政担当)、CS日本代表取締役会長
- 2007年(平成19年)6月、取締役専務執行役員[注 15](人事局・総務局・労政担当)、 CS日本代表取締役会長
- 2009年(平成21年)3月16日、取締役専務執行役員制作局長、CS日本代表取締役会長
- 2009年6月、取締役専務執行役員編成局長兼ドラマ局・バラエティー局・情報エンターテインメント局・スポーツ局担当[注 16]、CS日本代表取締役会長
- 2009年12月1日、取締役専務執行役員(編成局担当)、CS日本代表取締役会長
- 2010年(平成22年)6月29日、取締役副社長執行役員[注 17]、CS日本代表取締役会長
- 2011年(平成23年)6月14日、日テレ・グループ・ホールディングス(のちの日テレグループ企画)代表取締役社長[注 18]、日テレ・テクニカル・リソーシズ、日テレアックスオン、日テレイベンツ、日本テレビアート、日本テレビ音楽、東通各社取締役、CS日本代表取締役会長
- 2012年(平成24年)6月、取締役(非常勤)、日テレ・グループ・ホールディングス代表取締役社長、日テレ・テクニカル・リソーシズ、日テレアックスオン、日テレイベンツ、日本テレビアート、日本テレビ音楽、東通各社取締役、CS日本代表取締役会長
- 2012年10月1日、日本テレビホールディングス(旧・日本テレビ放送網から社名変更)[注 1]取締役(非常勤)、日テレグループ企画代表取締役会長[注 19]
- 2013年(平成25年)6月、日本テレビホールディングス取締役(非常勤)
- 2016年(平成28年)6月、日本テレビホールディングス補欠監査役[注 20]
- 2018年(平成30年)6月、日本テレビホールディングス補欠監査役退任[12]、退社[注 21]。退社後は、日本記者クラブOB会員となる[5]。
エピソード
- 早稲田大学第一文学部時代はアナウンス研究会に所属。同アナウンス研究会に同時在籍していた先輩・後輩に鈴木史朗(3期先輩、元TBS)、久米宏(2期後輩、元TBS)、松永邦久(3期後輩、元TBS)、見城美枝子(3期後輩、元TBS)、露木茂(2期先輩、フジテレビ)、永島信道(1期先輩、元フジテレビ)、逸見政孝(3期後輩、元フジテレビ)、松倉悦郎(3期後輩、元フジテレビ)がいた。地方出身者ということもあり、NHKが出版したアクセント辞典を使って発音を間違った際はその箇所をペンで塗りつぶしては徹底的にアクセントを矯正し、卒業時にはこの辞書を3冊もペンで塗りつぶすほどの努力家であった[13][注 22]。
- 次の資料より、大学時代は放送研究会に所属し、アクセント辞典を2冊つぶして富山なまりを克服したとする記述あり[2]。
- 入社2年目、自由民主党本部での総選挙大会の中継にて、徹夜で担当していた挙句、当時の福田赳夫幹事長の横のソファで大いびきをかいて寝てしまったことがある[7]。
- 1985年の雑誌にて、降雪に苦しみながら200人ものスタッフとともに担当し、34.1%の視聴率をたたき出した横浜国際女子駅伝中継をアナウンサー生活における思い出のシーンに挙げている[1]。
- サッカー中継では、1985年のトヨタカップのユヴェントス( イタリア)vsアルヘンティノス・ジュニアーズ( アルゼンチン)における、ユヴェントスのミシェル・プラティニ( フランス)がボレーシュートを決めた(ただしオフサイドによりノーゴールとなっている)時に発した「プラティニゴール! スーパーゴール! ビューティフルゴール!」は名台詞となった[14][注 23]。この台詞は、事前に考えていたものではなく、アドリブで発したものだという[14]。また、特徴としては、クラブ名よりむしろ「ヨーロッパ(チャンピオン)」「南米(チャンピオン)」というフレーズを多用し、欧州vs南米という構図をあおる傾向が高かった[14]。
- 日本テレビ系列のサッカー中継における「ゴール!!」の絶叫は、高校サッカー中継を担当していたころの舛方が、高校サッカーを盛り上げるための演出として、または本場サッカーでの熱狂ぶりを日本のファンにも知ってもらうために、南米のサッカー中継にあった表現を全担当アナウンサーへ義務付けたことから始まった[注 24]。
- アナウンス部長時代は新人アナウンサーへの熱血指導が有名で、番組改編期の特番等でも舛方と厳しさに苦しむ新人の様子がよく取り上げられた。例えば、1994年入社の羽鳥慎一・藤井貴彦は「(見えない)花瓶を割れ」と発声練習を長時間続けさせられ、体育会系なアナウンス部内の雰囲気も相俟って気後れしたという[16]。
- サッカー・マラソン・陸上競技などスポーツ実況を数多く担当したが、プロ野球・ゴルフ・プロレス・ボクシングなどの実況担当経験はない。
- 『NNNきょうの出来事』を長期間、1986年4月から半年間、平日の『NNN6:30きょうのニュース』を担当した。『NNN6:30きょうのニュース』担当時は、名前のテロップにますかたとルビがあった。
出演番組
※特記なき限り、日本テレビアナウンサー当時のもの。
報道
※参考[注 25]
- 代表で務めた報道番組
- 定時・中継担当番組
スポーツ中継
※参考[注 28]
その他
ドラマ
アニメ
自己批評・検証番組
出演映画
アニメ
脚注
注釈
- ^ a b c d e 1952年(昭和27年)に日本テレビ放送網株式会社設立。1953年(昭和28年)8月28日に本放送開始・開局。2012年(平成24年)10月1日に日本テレビホールディングス株式会社へ社名変更し持株会社化、新会社の日本テレビ放送網株式会社(同年4月26日に日本テレビ分割準備株式会社として設立。10月1日付で社名変更)にテレビ放送事業などを分割・承継した(新旧分割)。
- ^ 一部では、「舛方 勝広」と表記[1]。
- ^ 参考:
- ^ 参考(出身地情報):
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- 1994年に発行された日本テレビアナウンス部の編著書『実況!』より、アナウンス部長として明記…[6]
- まえがきには「日本テレビ放送網株式会社編成局アナウンス部長」との肩書が明記…[9]
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- 執行役員メディア戦略局CS準備室長と記載…[10]
- ^ 2015年(平成17年)11月9日付で株式会社シーエス日本から株式会社CS日本に社名変更。なお、社名変更前から、略称・通称として「CS日本」の表記も使用していた。
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- 2009年6月26日に開催された第76期株主総会および取締役会で選任の旨記載…[11]
- ^ 参考:
- 日本テレビ放送網取締役副社長執行役員就任年…[8]
- 就任年月…和暦で記載[3][4]
- 2010年10月1日現在、編成局・ドラマ局・バラエティー局・情報エンターテインメント局・スポーツ局担当であることも併せて明記…[8]
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- 日本テレビホールディングス取締役について
- 日テレグループ企画代表取締役会長について
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ この実況担当試合について、のちにアナウンサーとして最も印象に残った場面に挙げている[6]。
- ^ 参考:
- 読売テレビ公式サイト内連載コラム『道浦俊彦 とっておきの話』2000年11月12日付配信記事“ことばの話195「ゴルゴルゴル」”より[15]
- ^ 参考:
- アナウンサーとしてニュース番組を担当の旨記載[5]。
- ^ 参考:
- 『きょうの出来事』表記
- 1980年当時の担当番組として明記[7]。
- 1985年当時の担当番組として明記[1]。
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- 担当していたスポーツ中継について、マラソン、駅伝、全国高校サッカー選手権が明記[2]。
- 1985年当時の担当番組として、「スポーツ中継」と明記[1]。
- ^ 「日本テレビ初のロードレース中継」「タイムス30Kロードレース 舛方・倉持アナ札幌へ」と記載[18]。
- ^ 「日本テレビ初のマラソン中継」「81東京国際マラソン」「本多・舛方アナほかアナウンス部総出」と記載[18]。
- ^ 参考:
- 世界陸上実況担当の旨記載…[5]
- 1987年第2回当時の担当…和暦で記載[19]
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- サッカー中継
- 高校サッカー中継立ち上げに関わったことが記載…[5]
- トヨタカップ担当の旨記載…[5]
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
出典
参考資料
- 外部リンク
『実況! 熱きことばの伴走者たち』(1994年3月発売・4月1日発行、日本テレビ放送網アナウンス部編著・
創拓社発行)
ISBN 9784871381772
- ふろく「テレビと共に108人」(P213-242掲載) ※歴代の日本テレビアナウンサーを入社年ごとにまとめた年表(年号は和暦。1989年は平成元年に統一)。世の中の出来事と併せ、アナウンサーの動きについても「アナウンス部メモ」として記載。1994年(平成6年)当時の日本テレビアナウンサーのプロフィール(同年の新入社員羽鳥慎一と藤井貴彦を含む。ただし、定年退職の本多当一郎除く)が記載。
関連項目
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期間 |
メイン・男性 |
メイン・女性
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月 - 水曜日 |
木曜日 |
金曜日 |
土・日曜日 |
月 - 水曜日 |
木・金曜日
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1954年10月4日 - 1958年3月30日
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(不明) |
(放送なし) |
(不明)
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1958年3月31日 - 1974年3月31日
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(不明)
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1974年4月1日 - 1979年4月1日
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小林完吾1 |
(不明) |
(不在)
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1979年4月2日 - 1980年3月30日
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久保晴生1
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1980年3月31日 - 1980年5月4日
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片倉もとこ |
馬場恭子
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1980年5月5日 - 1980年9月28日
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櫻井良子
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1980年9月29日 - 1981年10月4日
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櫻井良子
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1981年10月5日 - 1983年4月3日
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本多当一郎2・3
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1983年4月4日 - 1983年10月2日
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高雄孝昭1 |
國弘正雄
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1983年10月3日 - 1984年4月1日
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舛方勝宏1
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1984年4月2日 - 1985年3月31日
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小林完吾1
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1985年4月1日 - 1986年3月30日
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小林完吾1 |
舛方勝宏1 |
芦沢俊美 |
櫻井良子 |
青尾幸
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1986年3月31日 - 1988年4月3日
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芦沢俊美1
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期間 |
メイン |
サブ(平日のみ)
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月 - 木曜日 |
金曜日 |
土・日曜日 |
男性 |
女性
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1988年4月4日 - 1990年4月1日
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真山勇一 櫻井良子 |
舛方勝宏 青尾幸 |
(不在)
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1990年4月2日 - 1991年9月29日
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櫻井良子 |
井田由美
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1991年9月30日 - 1994年4月3日
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保坂昌宏4 |
(不在)
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1994年4月4日 - 1996年3月31日
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櫻井よしこ |
井田由美 |
片平夏貴
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1996年4月1日 - 1998年3月29日
|
井田由美 |
鷹西美佳1・3 |
藪本雅子
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1998年3月30日 - 1998年5月31日
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長谷川憲司
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1998年6月1日 - 1998年9月28日
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(不在)5
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1998年9月29日 - 2001年9月30日
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豊田順子
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2001年10月1日 - 2003年9月28日
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菅谷大介
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2003年9月29日 - 2006年9月29日
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小栗泉 |
寺島淳司 |
佐藤良子
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