羽田 斉(はた の むごえ)は、飛鳥時代の貴族。姓は朝臣。官位は正五位上・造薬師寺司。
出自
波多氏(羽田氏・八多氏)は、『新撰姓氏録』「右京皇別」の「八多朝臣」の項目によると、「石川朝臣同祖、武内宿禰命之後也」としている。『古事記』では、林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部之君同様、建内宿禰の子供の波多八代宿禰の後裔とされている[1]。
「波多」は地名によるもので、『和名類聚抄』には大和国高市郡波多郷(現在の奈良県高市郡明日香村の村畑、高取町)がある。延喜式の神名式には、高市郡波多神社が載せられている。推古天皇18年(610年)、『日本書紀』巻第二十二の推古天皇20年(612年)には、
薬猟
(くすりがり)して、
羽田(はた)に集
(つど)ひて、相
(あひ)連
(つづ)きて朝
(みかど)に参趣
(おもぶ)く。其
(そ)の装束
(よそひ)、菟田
(うだ)の猟
(かり)の如し。
[2]
とある。
『日本書紀』巻第二十九によると、天武天皇13年(684年)の八色の姓では、波多臣は朝臣を賜与されている[3]。
経歴
『書紀』巻第三十によると、持統天皇3年(689年)6月、
皇子施基(みこしき)・直広肆(じきくゎうし)
佐味朝臣宿那麻呂(さみ の あそみ すくなまろ)・羽田朝臣斉(はた の あそみ むごへ)斉、此をば牟吾閉(むごへ)と云ふ。・勤広肆(ごんくゎうし)
伊余部連馬飼(いよべ の むらじ うまかひ)・
調忌寸老人(つき の いみき おきな)、務大参(むだいさむ)
大伴宿禰手拍(おほともの すくね てうち)と
巨勢朝臣多益須(こせ の あそみたやす)等(ら)を以て、「
撰善言司」(よきことえらぶつかさ)に拝(め)す。
[4]
とある。彼らの撰ぼうとした『善言』という書であるが、南朝宋の范泰の『古今善言』を模範にした説話集であったが、刊行されず、『日本書紀』の資料にされたと言われている。
『続日本紀』巻第一によると、文武天皇4年(700年)、直広参(正五位下相当)の牟後閉を、周防総領に任じ[5]、巻第二では、翌大宝元年(701年)に正五位上の牟後閉を造薬師寺司に任命した、とある[6]。
参考文献
- 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年* 『日本書紀』(四)・(五)、岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12、岩波書店、1989年
- 『続日本紀』全現代語訳(上)講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
脚注
- ^ 『古事記』中巻、孝元天皇条
- ^ 『日本書紀』推古天皇20年5月5日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇13年11月1日条
- ^ 『日本書紀』持統天皇3年6月2日条
- ^ 『続日本紀』文武天皇四年10月15日条
- ^ 『続日本紀』文武天皇 大宝元年6月11日条
関連項目