織田 信兼(おだ のぶかね)は、安土桃山時代の武将。織田信孝の家臣。通称は新八郎。
略歴
織田信勝(信行)の子[3]。『系図纂要』に見られ、史料はほぼない。
同系図によれば津田信澄の弟は一人で[3]、記述のない信糺との序列は不明なため、二男か三男。兄と同じく津田姓を名乗ったなら津田信兼であろう[6]。
天正10年(1582年)の本能寺の変直後、神戸信孝と丹羽長秀は大坂で兄・信澄を謀殺しているが、新八郎信兼(信包)は織田家の内紛では信孝に従う。
天正11年(1583年)、峰信濃守・平田壹岐守と瑞龍寺山城(瑞龍寺山砦)を守るが、賤ヶ岳の戦いでの柴田勝家の敗戦を知って岐阜城へ撤退。城からの退去に従って野間に赴き、信孝が自害したときには殉死した50名の1人という。
脚注
- ^ a b “『系図纂要』”. 東京大学史料編纂所. 2021年1月23日閲覧。
- ^ 東京大学史料編纂所。
- ^ 叔父の織田信包が天正12年から13年頃に信兼と署名しており[5]、「織田信兼」(上野介)とあるものは、叔父・信包をさしている。
参考文献