第二次パーニーパットの戦い Second Battle of Panipat 第二次パーニーパットの戦いのレリーフ 衝突した勢力
ムガル帝国
ヘームー 指揮官
アクバル バイラム・ハーン
ヘームー † 戦力
20,000人
100,000人以上 (騎兵30,000 人 多数の歩兵 & 戦象1,500) 被害者数
少数
甚大
第二次パーニーパットの戦い (だいにじパーニーパットのたたかい、英語 :The Second Battle of Panipat)は、1556年 11月5日 にパーニーパット (パーニーパト)において、ムガル帝国 のバイラム・ハーン とスール朝 の武将ヘームー (ヒームーとも)との間に行われた戦い。この戦いにおける勝利はアクバル の治世がムガル帝国の黄金期となる端緒となった。
戦闘に至る経緯
ヘームー
1555年、ムガル帝国 の皇帝フマーユーンはスール朝からデリーを奪還したが、まもなく1556年1月に事故死した。その後を幼少の息子アクバルが継承し、宰相であるバイラム・ハーンが摂政となっ[ 1] た。
一方、北インドではムハンマド・アーディル・シャー をはじめとするスール朝の王3人が割拠していたが、その3人以外でヘームーの存在はもっとも帝国に脅威であった[ 2] 。ヘームーはスール朝のヒンドゥー 武将であったが、1555年のスール朝の滅亡後、主君ムハンマド・アーディル・シャーと別行動をとり、新王朝の樹立を狙っていた。
そして、1556年1月にフマーユーン が死ぬと、ヘームーはその混乱を狙い、軍を集め、10月 にデリーを陥落させ、「ラージャ・ヴィクラマーディティヤ」を名乗った[ 3] 。
このとき、ヘームーの軍勢10万を超す軍勢であったのに対し、ムガル帝国の軍勢は2万ほどであった。だが、アクバルとバイラム・ハーンの決断により、帝国軍はこれと戦う決断をした[ 4] 。
戦闘
その後、ヘームーはムガル帝国の主力軍と戦うために、デリー近郊のパーニーパット へと向い、11月5日 に決戦の火蓋が切られた。この地はかつてアクバルの祖父バーブルがローディー朝の大軍を破った地でもあった[ 1] 。
ムガル帝国の軍2万に対し、ヘームーの軍は彼自身の率いる象軍1500、騎兵3万、多数の歩兵、少なくとも10万を超す兵力であった。圧倒的優勢のヘームーはムガル帝国の軍を破っていった[ 5] 。
だが、帝国軍が崩れかけたところで、ヘームーの目に敵の矢が突き刺さったために軍は総崩れとなった[ 1] 。ヘームーはとらえられ、バイラム・ハーン自身の手によって処刑された。なお、この勝利はバイラム・ハーンに帰すところが多かった[ 1] 。
戦闘後
その後、ヘームーの首はカーブルへ、遺体はデリーへとそれぞれ送られた[ 5] 。アクバルは帝国の首都デリーへと入城し、ヘームーの残党を殺害した。こうして、ムガル帝国は再興することが出来た。
バイラム・ハーンは戦闘での活躍から皇帝を凌ぐほどの権力を手にしたが、アクバルとの対立が激しくなり、1560年3月に宰相位を解任された[ 1] 。
脚注
^ a b c d e 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p151
^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p186
^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p1186
^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p74
^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p187
参考文献
小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年
フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年
アンドレ・クロー著、岩永博監修、杉村裕史訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年
関連項目