称念寺(しょうねんじ)は、福井県坂井市丸岡町長崎にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。
歴史
この寺は、室町時代につくられた縁起によれば、721年(養老5年)に元正天皇の勅を得て泰澄大師によって開かれたと創建され、1290年(正応3年)他阿真教によって時宗に改められたという[1]。
新田義貞が1338年(延元3年・暦応元年)に越前国藤島の燈明寺畷(現在の福井市新田塚)の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。この往生院が当寺とされている。当寺境内に義貞墓所[2]があった。
室町時代には、後花園天皇[要出典]や室町幕府3代将軍足利義満[要出典]、8代将軍足利義政[3]の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。後に、徳川将軍家の香華院となって栄えたが、明治政府による版籍奉還の影響で、無檀家無俸禄となり経済的危機にさらされた[1]。やがて寺はもぬけの殻になったが、それを救ったのは広島県尾道の海徳寺住職高尾玄師であった。1914年(大正3年)に再建を果たし、1937年(昭和12年)には新田公600回忌法要を執り行った[4]。その後も福井地震によって存続の危機にたたされるも、多くの人々の協力・支援により今尚人々に愛される寺院となっている[4]。
近くにあった末寺の光明院は倉を経営していた[5]。また三国港から日本海を通じて交易を行っていた。そのため越後国府中(新潟県上越市)に同名の寺もできた[注釈 1]。高田城下に移転した。
門前に明智光秀が、越前国の朝倉義景仕官時に住んでいた[注釈 2]。これは史実とは別に『明智軍記』として脚色され、広く読まれた。妻を置いて全国武者修行した創作の物語に因んで、松尾芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」と詠んでいる。芭蕉の句碑が境内にある[7]。
歴代住職の阿号は「薗阿」である。
文化財
参考文献
脚注
注釈
- ^ 当初「応称寺」と言ったが、すぐ同じ名に改めた。
- ^ 『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の天正8年(1580年)7 - 8月の旅行記、随行者が記述)天正8年(1580年)正月24日条に、阪本城の光秀へ南都修行のために筒井順慶への紹介状を称念寺僧を使者にして依頼し、知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人であったが、越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた。そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた」と記述。
出典
関連項目
外部リンク