ショービジネスでは女性は常に物として扱われてきた。喜劇俳優のオープニングアクトを務めると、舞台から去るときなどに決まってこう言われる。「よし。服を脱いで楽屋で俺を待ってな。すぐ戻るからな」。そうした扱いを公にすることで、すべての女性に屈辱を与え、その品位を傷つけてきた。 女であるとはどういうことか。それを言い表している曲で、私の考えに合致するものは当時見つからなかった。頭にあったのは、大恐慌やら世界大戦やら酔っ払った夫の虐待やらをくぐり抜けた、私の家族にいるあの強い女性たちだった。しかしそういった事柄を反映するものは、音楽の世界にはどこにもなかった。例外は「I Feel Pretty」とあのおぞましい「Born a Woman」だけだった。両曲とも厳密には女性を力づけるような内容ではなかった。私は自分をソングライターとは全く考えてなかったが、結局曲を書かざるを得なくなった。
レディによれば、歌詞はある夜突然インスピレーションが湧いて生まれたという。彼女は翌日、The Executivesというロックバンドのメンバーだったオーストラリア出身のレイ・バートンに歌詞を渡した。バートンによれば3時間ほどで曲は完成し、メロディに合わせるために歌詞はいくつか手直しされた。「私は女」は、二人の共作であるもう一つの曲「Best Friend」とともに1971年5月発売のファースト・アルバム『I Don't Know How to Love Him』に収録された[3]。
1972年に再レコーディング
レディは「私は女」をヒットするようなシングルともラジオ向きの曲とも考えていなかったが、コンサートでは最初の曲に必ず選んでおり、ファンからも好評だったという。そんな頃、ウーマン・リブ運動を題材にした映画『Stand Up and Be Counted』(1972年5月公開)のオープニング・クレジットに使われることが決まった。キャピトル・レコードは万が一映画がヒットしたことを考えて、シングルとして発売することを決定[4]。オリジナル・バージョンは2分15秒しかなかったため、再録音されることとなり、レディは歌詞を付け加えた。ロサンゼルスのサンウェスト・レコーディング・スタジオにリーランド・スカラー、ジム・ゴードン、マイク・ディージーなど腕利きのミュージシャンが集められ、ジェイ・センターのプロデュースの下、レコーディングは行われた。
1972年5月、シングルとして発売[1]。B面はセカンド・アルバム『Helen Reddy』に収められていた「More Than You Could Take」。
同年12月9日付のビルボード・Hot 100で1位を記録した[5]。オーストラリア出身の歌手/ミュージシャンが同チャートの1位を獲得するのは初めてのことだった。そのほかイージーリスニング・チャート2位、オーストラリア2位、カナダRPMで1位、キャッシュボックス誌で1位を記録するなど大ヒットとなった。同年11月発売のアルバム『I Am Woman』に収録された。また、第15回グラミー賞でレディは「私は女」により、最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞した。