石垣氏(いしがきし)は、南北朝時代から戦国時代にかけての武家。
概要
『両畠山系図』によると、石垣氏の祖は畠山義深の子で畠山基国の弟の石垣満国(左京大夫)であるとされる。満国からは左京大夫持秋-七郎教重と続いた。その後畠山尚順の三男である石垣政氏が跡を継いだものの、尚順の次男・畠山長経がこれを殺害し石垣氏の家督を継承したとされる[1]。ただし、一次史料上に持秋や教重の名前は見えない。
一次史料に見える石垣氏は、
がいる[2][3]。このうち石垣畠山又次郎と畠山左京大夫、寅千代丸と舎弟石垣は同一人物であると考えられる[2]。
『古今采輯』の系図で「石垣元祖」と記される畠山長経は、前述の通り石垣政久を殺害し石垣氏を継承したとされるものの、一次史料では確認できない。『足利季世記』では、長経は天文3年(1533年)に家督を継承したとされ、同年8月16日には畠山左京大夫宛ての御内書が足利義晴より発給されている。なお、長経という名前も一次史料では確認できない[2]。
『古今采輯』の系図では長経の子に安鶴・岩鶴という子がいたものの、2人とも早世したとされる[4]。安鶴・岩鶴の後継者として卜山の子・細川和泉守が、和泉守の子に細川刑部大輔(畠山政清)が、刑部大輔の後継者には湯川直光がおり、直光の子には石垣某がいる[5]。
『寛政重修諸家譜』によると、畠山勝政(尚順)の子・畠山永澄が石垣・神保を称したとされる[6]。
脚注
注釈
出典