目黒 三策(めぐろ さんさく、1904年1月2日[1] - 1974年11月8日[2])は、日本の実業家。昭和期の出版事業家で音楽之友社社長。新潟県中蒲原郡横越村沢海出身[3][4]。
略歴
東京専門学校卒業[1]。
日本管楽器会社(ニッカン、後にヤマハに吸収)の宣伝部長であった目黒三策は、雑誌『音楽倶楽部』の責任者でもあった。1941年(昭和16年)12月に音楽雑誌第1次統合が行われ、『音楽世界』『月刊楽譜』『音楽倶楽部』の3誌は統合して『音楽之友』が創刊された。発行元は新しく設立された音楽之友社で、社長及び編集主幹は堀内敬三であり、目黒は役員として加わった[5]。
1946年(昭和21年)6月の定時株主総会で堀内は社長を辞任し、専務取締役目黒が取締役社長に就任した[6]。堀内は後に取締役会長となった。堀内は音楽についての執筆が本業であったので、会社経営を本務とする目黒と役割を分担することになった[5]。
目黒は後に、音楽之友社の系列会社である水星社と東亜音楽社の役員も務めた[7]。水星社は1956年(昭和31年)に著作権保護管理会社として設立、翌1957年(昭和32年)に音楽之友社の系列会社となった[8][9]。東亜音楽社は1961年(昭和36年)にポピュラー音楽作品を扱う会社として設立された[10]。
1974年(昭和49年)春の叙勲で勲四等瑞宝章受章[11]。同年11月8日腎不全で死去、享年70[2]。
脚注