渡辺 南岳(わたなべ なんがく、明和4年(1767年)- 文化10年1月4日(1813年2月4日))は江戸時代後期の画家。京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称小左衛門[1]。円山応挙の高弟で応門十哲に数えられる。江戸に円山派を広めた。
略伝
修行時代
画をはじめ源琦に師事し、ついで円山応挙に学ぶ[2]。入門時期は不明だが、30代に入って年期を記した作品では既に円山派の技法を完全に身に付けている事から、20代には弟子入りしていることが推定される。二十代後半になって俳諧を中心とした版本の挿図(挿絵)を手がけている。このころ、三河吉田の恩田石峰が門人となっている。
江戸での南岳
三十代前半の3年間、江戸に遊歴[3]。俳諧師の鈴木道彦と親交があり、『むまの上』(享和2年刊・1802年)の挿図を画いた。
江戸において開催された書画展覧会(「秋芳園新書画会」文化元年)などに参加。谷文晁・亀田鵬斎・酒井抱一・鈴木芙蓉・釧雲泉・浦上春琴・鍬形蕙斎・雲室・横田汝圭・長町竹石・広瀬台山・夏目成美・亀井東渓など当代一流の文人と交流した。
文晁の娘婿文一[4]や大西椿年、鈴木南嶺が入門。渡辺崋山も南岳画の模写[5]を熱心に行っている。このように南岳は江戸において「京派」・「京伝」と称され、文晁派を中心に円山派の画法を広めた。京都に戻る時には300両を蓄えたといわれ[6]、江戸で南岳の画風は持て囃されたようだ。
帰京後
京都に戻ると四条柳馬場東に住し、円山派(奥文鳴・森徹山)・四条派(長山孔寅・柴田義董・岡本豊彦)の画家と交友し画作に励む。皆川淇園からは画の依頼を受けている。また国学者の上田秋成との交流[7]が知られる。南岳は大明国師像の模写を依頼されたとき、秋成の容貌が国師に似ている気づき、顔の写生を行ったという。晩年は失明したとも言われるが[8]、定かでない。文化10年正月、突如病に倒れ死没。享年48。戒名は「釈南岳信士」。京都双林寺に葬られた。京都の門人に中島来章・松井南居がいる。それぞれ京都と江戸で南岳の「三十三回忌追善書画会」を開催している。
現在確認されている作品数は60点ほど[9]で、流麗な筆致で美人図・鱗魚図を得意とした。なお、尾形光琳を敬慕[10]したとされるが、その画風に琳派風を見ることはできない。しかし、装飾的な画面構成にその影響を見る向きもあり、江戸琳派の絵師酒井抱一は、南岳死去の報を聞いて「春雨に うちしめりけり 京の昆布」とその死を惜しむ句を詠んでいる。文久元年(1863年)の書家・絵師の価格一覧表では、南岳は15匁とある[11]。
代表作
脚註
参考文献
外部リンク
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