浜田 広綱(はまだ ひろつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。葛西氏の家臣。陸奥国東館城主。
略歴
大永3年(1523年)、誕生。気仙地方の旗頭で陸前高田の東館城主。
天正14年(1586年)の歌津合戦で本吉重継を撃破し併合した。天正15年(1587年)、気仙沼の宿敵赤岩城主・熊谷直義と決戦に挑むが、主君の葛西氏が熊谷氏を支援し、熊谷勢の伏兵に遭うなどして戦線が膠着したため、一度は停戦。しかし、翌天正16年(1588年)3月には再び所領減の措置を不服とし、及川氏に奪われていた米ヶ崎城を奪回するが敗北(浜田兵乱)、所領を失った。
跡を三男・信綱が引き継いだが[1]、奥州仕置で改易され、葛西大崎一揆に加担。伊達政宗により謀殺されたため勢力を失い、広綱は隠遁した。
文禄元年(1592年)2月15日、死去。享年70[2]。
脚注
- ^ 重俊・信雄は近隣の国人・江刺氏へ養嗣子として入っていた。
- ^ 一関市史編纂委員会 編『一関市史 第1巻 (通史)』一関市、1978年8月20日、570頁。