浅野 順平(あさの じゅんぺい、1856年1月21日(安政2年12月14日[1]) – 1925年(大正14年)9月23日[2])は、日本の衆議院議員。
経歴
加賀国河北郡高松村(現在の石川県かほく市)に浅野平七の五男として生まれ、1880年(明治13年)より石川県会議員を6期務めた[3]。1885年(明治18年)、第四高等中学校(のち第四高等学校、金沢大学の前身)の設置にあたって、北陸四県連合会議員に就任し、金沢への誘致を成功に導いた[4]。
1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は8回を数えた。
また、金沢電気株式会社取締役、北陸新聞社長などを兼ねた[4]。
脚注
- ^ 衆議院『第四十三回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1920年、24頁。
- ^ 故浅野順平位記追賜ノ件
- ^ 『衆議院議員列伝』
- ^ a b 『衆議院要覧』
参考文献
- 山崎謙『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 『衆議院要覧下巻 大正六年十一月』衆議院事務局、1917年。