治安六法の制定を主導した初代シドマス子爵ヘンリー・アディントン
治安六法 (ちあんろっぽう)、または六議会制定法 (ろくぎかいせいていほう)、六法 (ろっぽう、英語 : Six Acts )は、1819年 に制定されたイギリス の法。1819年8月16日のピータールーの虐殺 の後、イギリス政府はさらなる騒乱を防ぐべく、急進主義 改革を求める集会の鎮圧に乗り出し、それに伴い制定されたのが治安六法である。六法には限時法 も含まれたものの、軍事教練防止法 (英語版 ) は20世紀にも維持され、2008年にようやく廃止された。
20世紀の歴史学者エリ・アレヴィ (英語版 ) は治安六法を「シドマス卿 とその協力者の後援による[...]反革命の恐怖」が恐慌により拡大した結果としたが[ 1] 、以降の歴史学者は治安六法を秩序維持を図るための、比較的に寛大な施策であり、一時的に実施されたものにすぎないとした[ 2] 。
治安六法の制定
治安六法が制定された時期のイギリス首相リヴァプール伯爵 。ジョージ・ヘイター 作、1823年。
セント・ピーターズ・フィールド(St. Peter's Field )で非武装の民衆が義勇騎兵団(Yeomanry )に殺害されたというピータールーの虐殺 が起こると[ 3] 、多くの示威集会がイングランド北部で開催され、ミッドランズ やローランズ(Lowlands )などイングランド中部、南部にも飛び火し、合計17州で示威が決行された[ 4] 。地元の治安判事が中央政府からの支援を求めると、議会は11月23日に開会[ 5] 、内務大臣 の初代シドマス子爵ヘンリー・アディントン より治安六法の法案が提出された。ホイッグ党 が法案の原則にもその詳しい内容にも反対したが、六法は12月29日までに議会を通過した[ 5] 。ブリタニカ百科事典第11版 ではピータールーの虐殺以外にも、死期の近い国王ジョージ3世 は国民の同情を得ていたが、摂政王太子ジョージ にはそれがないことを治安六法が制定された理由の1つとしている[ 6] 。
法案は急進的な新聞紙の抑圧、大規模な集会の防止、そして(政府からみて)武装蜂起の可能性を減らすことを目的とした。庶民院での弁論ではトーリー党 もホイッグ党もフランス革命 を引き合いにし、トーリー党はフランスの治安の弱さを指摘、ホイッグ党は言論の自由 と出版の自由 の重要性を強調した[ 7] 。1818年イギリス総選挙 (英語版 ) で党勢を回復したホイッグ党は機に乗じて法案の改正動議を提出、「非公開で行う集会は許可する」「屋外で行う集会の禁止は限時法とする」「新聞規制違反の容疑者を追放刑に処すことはより困難にする」など規制を緩ませることに成功した[ 8] 。ホイッグ党は法案自体にも反対したが、首相リヴァプール伯爵 は法案を通過させることに成功した。
治安六法の内容
軽罪法が制定される原因となったリチャード・カーライル (英語版 )
軍事教練防止法 (英語版 ) (Training Prevention Act ) - 軍事教練を受けるために集会に出席する者は逮捕、流罪 とする。すなわち、軍事教練は地方自治体など政府しか行えないようにする。治安判事には大規模な民衆集会を法的に禁止する権力があったが、犯罪意図のない軍事教練は禁止できず、ピータールーの虐殺の対象となったセント・ピーターズ・フィールドの集会もこの抜け穴を利用して決行された[ 3] 。そのため、この法律は抜け穴を塞ぐための立法と言えた[ 3]
武器没収法(Seizure of Arms Act ) - 地元の治安判事は騒乱が起こった州内で任意の私有地に立ち入り、武器を捜すことができる。武器が見つかった場合は没収ならびに所有者を逮捕できる[ 9]
軽罪法(Misdemeanours Act ) - セント・ピーターズ・フィールドの集会で演説したリチャード・カーライル (英語版 ) は1818年12月には起訴されていたが、イギリスの裁判所の手続きが煩雑だったため裁判は1819年秋にようやく始まり、カーライルは裁判をさらに遅延させた[ 10] 。そのため、軽罪法ではイングランド王座裁判所 (英語版 ) およびアイルランド王座裁判所 (英語版 ) における廷外交渉(imparlance )を禁じた[ 11] 。また、軽罪で起訴されたが12か月以上裁判が行われなかった場合、被告人は裁判所に開廷を要求できるとした[ 11] 。
煽動集会禁止法 (英語版 ) - 「教会または国家」に関する集会(すなわち、政治集会)で50人以上が参加する場合、州長官または治安判事の許可を必要とする[ 12] 。また、集会が行われる小教区 の住民でなければ参加が禁止される[ 12]
冒涜的・煽動的文書誹謗罪法(Blasphemous and Seditious Libels Act 、Criminal Libel Act とも[ 13] )は文書誹謗罪の罰則を最大14年間の流刑に強化した。
新聞印紙税法(Newspaper and Stamp Duties Act )ではそれまで印紙税を支払わなかった、新聞ではなく論説しか掲載しなかった出版物(治安六法が制定される前はパンフレット扱いとして非課税)に課税し、出版社には200から300ポンドの保証金の支払い義務を課した[ 14] 。
治安六法の廃止
軍事教練の禁止は20世紀まで続き[ 15] 、法律自体は2008年にようやく廃止された[ 3] 。ただし、軍事教練防止法違反で有罪判決を受けた例はなかったという[ 3] 。
一方、武器没収は27か月間の時限立法であり[ 16] 、煽動集会禁止法は5年間という期限付きで1824年に廃止された。
20世紀の歴史学者G・M・トレヴェリアン によると、「(治安六法による)社会に最も長く残った傷は全ての逐次刊行物 に4ペニー の印紙税を課したことである」という。印紙税の金額は1836年には1ペニーに減額されたが、19世紀中期になってようやく廃止された[ 17] 。
冒涜的・煽動的文書誹謗罪法:
アイルランド では1961年名誉毀損法(Defamation Act, 1961 )により廃止された[ 18] 。
スコットランド では2010年スコットランド刑事司法特許法(Criminal Justice and Licensing (Scotland) Act 2010 )により廃止された[ 19] 。
イングランドおよびウェールズでは2008年刑事司法入国管理法(Criminal Justice and Immigration Act 2008 )により冒涜的誹謗罪が廃止され、イングランド、ウェールズおよび北アイルランドでは2009年検死官及び司法法(Coroners and Justice Act 2009 )により「国王、政府、またはイギリスの憲法 」への煽動的文書誹謗の条項が削除され、煽動的文書誹謗全般を規定する法律となった[ 13] 。また、第4条から第9条までと第11条は廃止された[ 13] 。
治安六法とピータールーの虐殺はピット派 が抑圧的な政権であることを示す象徴となった[ 20] 。
出典
^ Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. pp. 25, 67.
^ N. McCord, British History 1815-1914 (2007) pp. 27–28.
^ a b c d e "Peterloo law set to be repealed" . BBC News (英語). 19 March 2008.
^ Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. p. 67.
^ a b Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. pp. 67–69.
^ Chisholm, Hugh , ed. (1911). "English History" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 9 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 556.
^ Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. p. 74.
^ Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. pp. 76–77.
^ Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. pp. 67, 77.
^ Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. p. 72.
^ a b "Pleading in Misdemeanour Act, 1819" . electronic Irish Statute Book (英語). 2019年8月20日閲覧 。
^ a b Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. p. 70.
^ a b c "Criminal Libel Act 1819 (60 Geo. III & 1 Geo. IV c. 8)" . Statute Law Database (SLD) (英語). 2019年8月20日閲覧 。
^ Halévy, Élie (1961). The Liberal Awakening (英語). London: Barnes & Noble. p. 69.
^ G. M. Trevelyan, British History in the Nineteenth Century (London 1922) p. 190.
^ S. H. Steinberg, A New Dictionary of British History (London 1963) p. 335.
^ G. M. Trevelyan, British History in the Nineteenth Century (London 1922) pp. 190–191.
^ "Defamation Act, 1961" . electronic Irish Statute Book (英語). 2019年8月20日閲覧 。
^ "Criminal Justice and Licensing (Scotland) Act 2010" . Statute Law Database (SLD) (英語). 2019年8月20日閲覧 。
^ J. Plowright, Reency England (London 1996) p. 31.
関連図書
Hollis, Patricia (英語版 ) , Class and conflict in nineteenth-century England, 1815-1850 , Birth of modern Britain series, International Library of Sociology and Social Reconstruction, Routledge, 1973, ISBN 0-7100-7419-0
関連項目