初代橘ノ 圓都(たちばなの えんと、1883年3月3日 - 1972年8月20日)は、神戸出身の落語家。本名:池田 豊次郎。出囃子は『薮入り』。
経歴
神戸で代々続いた指物大工の家に生まれる。やがて芸事好きが嵩じ、16歳で三味線を始め、21歳で素人落語の座長となったため、生家を勘当される。1905年、初代桂春團治の世話で二代目桂文團治に入門、桂團壽(団寿)を名乗り同年夏に初舞台を踏んだが、前座修行の厳しさに耐え切れず、堺の天神席でヘタリ(出囃子を担当すること)をしたり、旅廻りになったりする。1912年、神戸に戻り、兄弟子の橘ノ圓三郎の世話で初代橘ノ圓に再入門し、橘家圓歌を名乗る。師匠が結成した「圓頂派」に席を置き、神戸を中心に活動した。このころは珍しいネタを好んで演じており、当時神戸での寄席千代之座などでは需要がある得意ネタを演じる噺家が多かったため珍しいネタをやる圓都は人気を得た。
1917年、東京に来演の折初代三遊亭圓歌とまぎらわしいので、二代目談洲楼燕枝の勧めにより、「七代目橘ノ圓都」を名乗った。もともと「橘ノ」の亭号は三遊亭(三遊派)の傍流であり、本人の話によると三遊亭圓都が六代目まで存在したことにより、当初は七代目圓都として神戸で襲名披露した。
昭和初期に突如として引退を発表し、大工に戻る。その後、五代目笑福亭松鶴の勧めで「楽語荘」同人に加わり、それを機に復帰するが、戦中は時局により再び活動休止状態になる。昭和初期に一時期廃業した理由は、『噺家の子はよい学校に入れない』という理由と戦時中の好景気で大工の需要が高まって儲かったからであったといわれる[要出典]。
1947年頃、指物大工をしていた圓都を再び舞台に復帰させようと、二代目桂春團治と夫人の河本寿栄が、灘の六甲道にあった圓都の家を訪ねた。圓都いわく『高座着だけは取ってあるし、復帰もしたいが、入れ歯がガタガタでしゃべりができない』とのことで、夫人の寿栄が側にあったにかわを見つけ冗談で「それで入れ歯をくっつけはったら」と言った。圓都は大笑いしたが、後で和紙をにかわに浸してやってみると、うまく入れ歯がくっつき、高座への復帰がかなったという。
数え90歳まで高座に上がった。今日でも多くの録音が残されている。最後の舞台は1972年6月2日に京都府立文化芸術会館で行なわれた「橘ノ圓都・桂米朝二人会」(LP化されている)。1972年8月20日に死去。89歳没。東西落語界通して最高齢の噺家であった。最期は前立腺がんだったという。
平成14年(2002年)度・第7回上方演芸の殿堂入りを果たした。
演目
持ちネタの数は膨大であった。特に音曲、それも浄瑠璃関係の噺が得意であった。
新作落語
自作
逸話
若い頃は正義感が強く、曲がったことが大嫌いであった。そのような固い性格と四角い顔から、神戸新開地にあった劇場にちなみ「聚楽館」(しゅうらくかん、1912年開館)、あるいは「下駄」とあだ名された。
晩年は打って変わって好々爺となった。落語への情熱は衰えず、特に若手には上方・東京を問わず熱心に指導した。ただし「ちかごろの若いモンはあきまへん。なんせテープレコーダーちゅうもん持ってきて稽古つけてくれ言いよんねんさかい。」と、きちんと昔ながらの稽古を尊重した。NHKで録音した帰り、ディレクターがお礼にタクシー代を渡そうとしたら、それを謝辞し、「わたいは、いつも市電で帰りますねん。その方が乗ってる客を観察できまっさかいにな。勉強になりま。」と答えた。三代目桂米朝には『宿屋仇』『軒付け』『胴乱の幸助』『けんげしゃ茶屋』『掛取』『三枚起請』『ふたなり』など、二代目桂枝雀には『日和違い』『夏の医者』『あくびの稽古』など、桂三枝に『羽織』『大安売り』、二代目桂歌之助には『寝床』、笑福亭仁鶴には『戒名書き』のネタを伝え、他にも三代目林家染丸、三代目桂文我や、あるいは二代目桂小南、六代目三遊亭圓生らの東京の落語家にも多くの稽古を付けた。
浄瑠璃を語るのが好きで稽古の後も酒をふるまいながら浄瑠璃を延々と語りだすので、皆辟易した。だが米朝によると腕は玄人はだしであったという。また若い頃端席で『めくらの提灯』の地歌の『鶴の声』を口三味線で披露したところ客席に目の不自由な検校が本当の三味線の音と間違えて絶賛したという。
晩年になっても孫ほど離れた女性を連れて楽屋に訪れるなど色男であった。自身は「新しい弟子でんねん。よろしゅう頼んます。」とよく言っていた。
芸歴
弟子
廃業
三遊亭圓都
三遊亭 圓都(さんゆうてい えんと)は、落語家。
初代三遊亭遊輔の門下。名古屋で活動。この圓都の一座に後の8代目桂文楽が「三遊亭小圓都」の名前で所属していたことがある。最近の調査で3代目柳家小さんの門下の柳家燕花(松本金太郎)は同一人物という可能性があると言う。通称「名古屋の圓都」。
出典