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この項目では、児童文学作家・教育者について説明しています。同姓同名のその他の人物については「森はな (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 - 1989年(平成元年)6月14日)は、兵庫県出身の児童文学作家・教育者。代表作は知的障害のある青年と地域との交流を描いた『じろはったん』。
経歴
少女時代
1909年(明治42年)、兵庫県養父郡大蔵村宮田(現・朝来市和田山町)で、酒類販売業を営む父の次女として生まれた。1924年(大正13年)に大蔵尋常高等小学校高等科から兵庫県明石女子師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身のひとつ)[1]に進学し、1928年(昭和3年)に明石女子師範学校を卒業した後、南谷尋常小学校の教員となり、その後養父尋常小学校に転任となった。
教員として
この頃に兄の友人であり後に結婚する森種樹との文通が始まり、1932年(昭和7年)に結婚した[2][3][4]。1936年(昭和11年)には夫婦共に高砂市立荒井小学校へ転任となり、森種樹の実家である加古郡加古川町(現・加古川市)に転居したが、森家とは不仲で勤務先近くに住んだ。
1951年(昭和26年)に兵庫県から退職勧告を受けたがこの時は退職せず、降格されて高砂市立伊保小学校に転任となった。この時期に学校劇に取り組み、「お祭りに来た兄弟」(1952年)がNHK主催の第1回近畿学校劇コンクールで最優秀賞を受賞し、翌年も「峠のお祭り」(1953年)で最優秀賞を受賞した。1960年(昭和35年)に51歳で再び退職勧告を受け教員を退職した[5]。
児童文学作家として
退職した年に「神戸児童文学『あす』の会」に入り、会の同人誌である『あす』に作品を発表し始めた。そして日本児童文学者協会の会員となった[6]。
1973年(昭和48年)に64歳で初めての出版作品で代表作となる『じろはったん』を出し、1974年(昭和49年)には第7回日本児童文学者協会新人賞を受賞すると、「遅咲きの新人」と評価された。翌年の1975年(昭和50年)、夫の森種樹をガンにより亡くした[7]。
1977年(昭和52年)に加古川市の自宅で児童文学の会「森はな学校」を発足させ、灰谷健次郎、あまんきみこや地域の文学愛好家が参加した[8]。
1982年(昭和57年)に絵本『こんこんさまにさしあげそうろう』で第5回絵本にっぽん大賞受賞。1984年(昭和59年)に第1回加古川文化賞を受賞した[6]。
1985年(昭和60年)に文学活動を支えてくれていた長男の秀樹を日本航空123便墜落事故で亡くしたが、悲しみから立ち直って創作を続け、1987年(昭和62年)に第41回神戸新聞平和賞を受賞した[9][10]。
死去
1989年(平成元年)6月14日、『赤いマントのおばあちゃん』の制作途中に亡くなった[11]。
顕彰運動
出身校の朝来市立大蔵小学校では、毎年秋に行われる「市学校音楽祭」で、作品を音楽物語にして公演されている[10]。朝来市和田山図書館には森はなコーナーがある。
日本ミュージカル研究会・劇団JMAが、主宰者でミュージカル作家の高井良純による脚色・作曲・演出でミュージカル「じろはったん」を公演している[12]。
2012年(平成24年)、朝来市にある和田山中央文化公園に「森はなさんの生涯をNHK朝の連続テレビ小説に」と書かれた高さ4mの立て看板が設置された。市民団体「森はなの伝記を『NHK朝ドラへ』の会」などがの朝ドラの誘致活動を行っており[13][14]、2011年(平成23年)4月時点で3万筆を超える署名が集まっている[15]。
作品
- じろはったん
- ハナ先生ものがたり
- わたしトシエです
- ひいちゃんとタチアオイの花
- もどってくるもどってこん
- おばあさんは落語屋さん
- めんどりコッコ
- こんこんさまにさしあげそうろう
- キツネの花よめいしょう
- おさよつばき
- 一二(ほい)とうげ
- わたしはめんどりコッコです
- お葉つきいちょう
- こはる先生だいすき
- キツネとしゅんぺいじいさん
- 土の笛
脚注
参考文献
関連項目