梅 思平(ばい しへい)は中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。旧名は祖芬。
事跡
国立北京大学法律科の卒業生。国立中央大学、国立中央政治学校教授を経て、1933年(民国22年)、江寧県(現在の南京市江寧区)県長となる。中国国民党では、CC系の一員とされる。1936年(民国25年)6月、江蘇省第10区行政督察専員に任命され、9月には同区保安司令も兼ねた。翌年5月、職を免ぜられたが、同年に国民党中央政治委員会内政委員となる。
梅思平は、周仏海の側近として「低調倶楽部」に参加し、対日和平を主張した。また、芸文研究会香港分会の責任者として、香港の国際問題研究所の専門研究員となり、『国際叢書』の編集を担当した。1938年(民国27年)8月、汪兆銘(汪精衛)側の代表として松本重治ら日本側の和平運動責任者と交渉を重ね、汪兆銘の重慶脱出を実現させた[2]。
1939年(民国28年)8月、汪兆銘に合流し、その指導下で国民党秘書長、中央執行委員、常務委員、組織部長に任ぜられた。翌年3月、南京国民政府の正式な成立とともに、中央政治会議委員、工商部部長となる。5月、日本軍管理工廠接収委員会委員長となり、7月には糧食委員会委員長となった。11月、日本との『中日(日中)基本関係条約』締結に参与する。
1941年(民国30年)2月、浙江省省長を兼任し、3月に清郷委員会委員、8月に実業部部長[3]と歴任した。1943年(民国32年)1月、最高国防会議委員となり、9月、内政部部長に異動した。1945年(民国34年)5月、民衆訓練部部長も兼任する。
日本敗北後の同年9月に逮捕され、1946年(民国35年)5月9日、死刑判決を受ける。同年9月14日、南京で死刑を執行された。51歳没。
注
- ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1559頁。鄭仁佳「梅思平小伝」は1896年説に言及しながらも、1898年(光緒24年)説をとる。
- ^ 劉傑『漢奸裁判』、277頁
- ^ 工商部と農鉱部が合併して実業部が成立した。そのため、事実上、梅思平の留任である。
参考文献