桂 枝太郎(かつら えだたろう)は、落語の名跡である。当代は三代目にあたる。初代は上方落語家。二代目以降は東京の二代目桂小文治一門の名跡となった。柳家枝太郎と混合されやすいが、全く別の名跡である。
初代
初代 桂 枝太郎(1866年2月 - 1927年2月6日)は、本名: 岩本 宗太郎。享年62。
人物
京都生まれ。幼少の頃に父を亡くしたため、2代目桂猫丸(初代桂文之助の門下)が養父となる。
初め6歳で桂慶治に入門し扇太郎?を名乗る。1875年ころに2代目月亭文都の門下で春之助を名乗るが、文都と養父の意見が合わず、明治10年代初めに2世曽呂利新左衛門の門下で笑福亭梅幸の名で旅巡業に出る。その後春之助に戻り、1885年、養父の死によって京都へ戻り、3代目笑福亭松鶴の門下で5代目笑福亭吾鶴を名乗り(あるいは3代目桂文吾の門下で吾鶴を名乗るとも)、幾世亭に出演。1886年、上京し関東地方を巡業。1887年、2代目桂文枝の門下に移り、初代枝太郎を名乗り、主に京都の寄席で真打を張った。後に「京桂派」を主催し、若手育成にも尽力した。
住所から俗に「先斗町」と呼ばれる。歯切れ良く、線の太い芸風で、名人と称された。十八番は『堀川』『紙屑屋』『莨の火』などで、特に『大丸屋騒動』は、あまりに素晴らしい出来であったため、この演目のやり手が他になくなったと言われる。なお、SPレコードに『雷の褌』という小噺を吹き込んでおり、その芸風の一端を偲ぶことができる。また、舞踊は山村流の名手で、初代橘ノ圓と並び称された。
墓所は京都市東山の本壽寺。法名: 妙法桂宗院英枝居士。
一門弟子
らがいる。
2代目
二代目 桂 枝太郎(1895年5月7日 - 1978年3月6日)は、本名∶池田 芳次郎。享年84。落語芸術協会所属。出囃子は『串本節』。
人物
女には奥手だったが、戦後、戦災未亡人と結ばれた。しかし、数年して死んだはずの夫が復員してきたという。すでに大看板となっていた枝太郎であったが、数年間どこで何をしているか行方不明の失跡状態となった(実際は大阪にいた)。帰京後、住んでいたアパートに偶然東洋興業(浅草フランス座)の従業員が住んでおり、彼を介して浅草フランス座内に寄席(定席)、「東洋劇場」を作らせることに成功した。これが現在の「浅草演芸ホール」の前身である。
ボランティアも積極的に行い、少年院・刑務所などで落語を行うほか、篤志面接委員となって在院者・受刑者達の更生に尽くした。その功績により1977年(昭和52年)、春の藍綬褒章を受章している。また、川柳・都々逸作家として落語家の川柳の会「鹿川会」を主宰したため、墓所は柄井川柳の墓がある台東区蔵前の龍宝寺にある。
経歴
得意ネタ
『自家用車』『子故の春』などの新作落語や、『焔火百話』などの随談ものを得意とした。
一門弟子
直弟子
移籍
関連項目
出典