松平 直義(まつだいら なおよし/ただよし[1])は、江戸時代後期の大名。出雲国広瀬藩7代藩主。広瀬松平家7代。
略歴
美作国津山藩主・松平長孝(出雲広瀬藩第3代藩主・松平近朝の三男)の次男として誕生。母は藤堂高治の娘(藤堂高朗の妹)。初名は長善(ながよし)、のち近義(ちかよし)[2]、直義と改名。通称は主税(ちから)。
安永2年(1773年)、先代藩主・松平近貞の養子となり、同年のうちに家督を継いだ。米沢藩主・上杉治憲(鷹山)とも仲が良く、直義自身も才能に優れ、藩政で手腕を見せ、広瀬藩中興の君と言われた。また、文化人としての側面もあり、茶の湯に興味を持っては、同じく出雲松江藩主で親戚にあたる松平治郷(不昧)の門人となっていた。
享和3年(1803年)10月22日に死去。享年50。法号は本覚院。生前、50歳を過ぎた近貞に(つまり直義に家督を譲った後に)実子の直寛が生まれ、直義はこれを養子として迎えており、死後はこの直寛が跡を継いでいる。
脚注
- ^ 「なおよし」の読みは下記外部リンクのページより。足利直義と同じ読みで「ただよし」とされることもあるが、以降の当主に合わせて「直」は前者の「なお」と読むのが正確と思われる。
- ^ 下記外部リンクより。養子入りする前までは父・長孝より1字を賜って長善(長義)、近貞の養子になってからはその1字を賜い初めは近義と名乗っていた。
外部リンク
- 松平直義(コトバンク/「講談社 日本人名大辞典」)
広瀬松平家 広瀬藩7代藩主 (1773年 - 1803年) |
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