松平乗喬

 
松平乗喬
時代 江戸時代後期
生誕 文政4年(1821年[1]
死没 安政2年7月26日1855年9月7日
改名 寶千代→乗喬
戒名 春浩院義方成性
墓所 東京都台東区上野公園寛永寺春性院
官位 従五位下能登守
幕府 江戸幕府奏者番
主君 徳川家慶家定
美濃岩村藩
氏族 大給松平家
父母 父:松平乗美、母:千葉氏(側室)
兄弟 乗啓乗喬乗敦牧野忠興
寿松院牧野節成娘)
乗一乗命[2]、敏[3]、大道寺某室、
滝川忠挙
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松平 乗喬(まつだいら のりたか)は、江戸時代後期の大名美濃国岩村藩主。乗政流大給松平家7代。官位従五位下能登守

略歴

文政4年(1821年)、先代藩主・松平乗美の次男として生まれた[1]

天保11年(1840年)、諸太夫・靱負佐に任じられる。

天保13年(1842年)11月16日、父の隠居により岩村藩主となった。

天保14年(1843年)1月、を乗喬に改め、従五位下・能登守に叙位・任官された。

佐藤一斎の門人の中島勿堂・田辺恕亭を招聘し、中島勿堂を江戸詰儒員とし、田辺恕亭を藩校の知新館の儒員として学問を奨励した。

嘉永3年(1850年)2月、大坂加番に任じられたが、7月に病気となり役を退いた。

嘉永4年(1851年)6月13日、奏者番に任じられた。

安政2年(1855年)7月26日に卒去した。享年35。

次男の乗命が岩村藩主を嗣いだ。

主な藩士

家老

  • 黒岩助左衛門、味岡杢之允、大野蔵之進、森文五郎

用人

  • 飯野三右衛門、三好源太夫、小菅儀兵衛、岩松藤市、梅村源五右衛門、飯岡庄兵衛、矢口三左衛門

大目付

  • 中島長左衛門、神田三郎左衛門、山梨平右衛門、大山傳八郎、石寺十左衛門、森謙一郎、

郡奉行

  • 太田才兵衛、黒岩琢也、泊平内

参考文献

  • 『岩村町史』「十五 岩村藩主時代 3 松平氏」 p193~p227 岩村町史刊行委員会 1961年
  • 『恵那郡史』「第七篇 第二十八章 諸藩分治 其一 岩村藩 松平氏七代」 p218~p230 恵那郡教育会 大正15年(1926年)

脚注

  1. ^ a b 生年は文政9年(1826年)9月25日とも。
  2. ^ 生母は寿松院
  3. ^ 有馬氏弘継室、のち上杉茂憲継々室、のち井上某室

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