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杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉4月9日 - 1968年〈昭和43年〉12月8日)は、日本の倫理学者・思想学者・政治学者・社会学者。旧姓は白松(しろまつ)、号は南山。
人物
静岡県小笠郡南山村生れ。1906年(明治39年)、早稲田大学卒業。田中王堂に影響を受ける。『早稲田文学』記者の後、早稲田大学文学科講師となる。
1913年(大正2年) - 1919年、文部省特別留学生としてドイツ・イギリスに渡り、イギリス倫理思想を学ぶ。帰国後、早稲田大学文学部及び政経学部の教授を務めた。在職中は深く学生を愛し、学生が後から歩いてくると、「後進に道を譲る」といって先にいかせたというエピソードがある。戦後、駒澤大学教授を務めた。
「憲法草案要綱」を作成した民間グループ、憲法研究会の7人のメンバーのうちの一人。英語が堪能だったので、憲法草案要綱をGHQに持参することになった。GHQに持参する際は英訳もつけたが、その英訳を中心に読まれたかどうかは不明である。象徴天皇制を考案した、とも言われる。
1968年12月8日、老衰のため死去。享年87歳[1]。
なお、『文化現象の社会学』(杉森加重子発行 1984)等を著わした社会学者の杉森創吉(1939-1980)は、唯一の孫で、母のぶの死後、孝次郎・はな夫妻の養嗣子となった[2]。
著書
単著
編集
共著
共編
論文
脚注
- ^ 「杉森孝次郎氏」『朝日新聞』1968年12月9日、15面。
- ^ 原田鋼「創吉よ、なぜ逝った‼」杉森創吉追悼文集編集委員会(日本社会事業大学内;代表 中村優一)編集兼発行『微笑と情熱』1981、44-46頁。
外部リンク