木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年5月2日) - 1946年(昭和21年)2月14日)は、日本の教育者。
経歴
足羽県大野郡勝山町(現在の福井県勝山市)出身。1898年(明治31年)、東京高等師範学校文科を卒業し、研究科の修身科・教育科で学んだ。奈良県師範学校教諭、富山県師範学校教諭を経て、1904年(明治37年)に鹿児島県師範学校教諭に転じた。1910年(明治43年)、鹿児島県女子師範学校が分離・独立すると校長に就任し、鹿児島県立第二高等女学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、京都女子師範学校校長となり、翌年には京都府立桃山高等女学校校長を兼ねた。
1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校教授となり、同附属実科高等女学校主事、同附属小学校主事を兼ねた。小学校では合科学習を重視した。
著作
- 「学習法建設の苦心」(永田与三郎編 『大正 初等教育史上に残る人々と其の苦心』 東洋図書、1926年8月)
- 著書
脚注
参考文献
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
- 渡部政盛『日本現代の教育学』啓文社、1937年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 森田清之助『光悦談叢』芸艸堂、1920年。
関連文献
ウィキメディア・コモンズには、
木下竹次に関連するカテゴリがあります。