木下 東作(きのした とうさく[1]、1878年(明治11年)6月27日[2] - 1952年(昭和27年)6月19日[1])は、日本の運動生理学者[1]、スポーツ評論家[1][3]。医学博士[3]。
大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる[1][3]。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。
生涯
京都市出身[1]。木下凞の二男[5]。木下家はもと若狭小浜藩医の家で、凞は明治維新後に京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した[6][7]。産婦人科学者の木下正中は兄[1][8]。長男は動物生理学者の木下治雄、次男は日立造船社長の木下昌雄[9]。
東京府尋常中学[10]、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。一高在学中には陸上運動部員で、1899年(明治32年)5月13日に一高生が不忍池を13周する長距離競争大会(13マイル競走[注釈 1])を行った[注釈 2]際、同じ陸上運動部員の今村次吉と競り合い、ほぼ同時にゴールした(記録は1時間35分49)。今村の方がわずかに先着し、今村が優勝者とされる。1901年(明治34年)11月に時事新報が主催した「不忍池長距離競走大会」には帝大の医学生として参加、結果として途中棄権とはなったが、時事新報は木下の練習やコメントを紙面に取り上げており、メディアが生み出した「スター選手」の最初期の一人であった。
1903年(明治36年)、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)卒業[3]。母校で助手(副手とも[19])をつとめたのち[3]、1906年(明治39年)大阪府立高等医学校教諭(のちに大阪医科大学教授[注釈 3]。大阪大学医学部の前身)となる[3]。
1908年(明治41年)、ヨーロッパに出張[3]。帰国後は大阪府内の小中学校でスポーツ実技の指導を行い[3]、また神戸高等商業学校(現在の神戸大学)の体育顧問を務めている[3]。東京高等師範学校でも講師を務め、運動生理学を講じた[3]。
1919年(大正8年)4月、大阪医科大学在籍のまま大阪毎日新聞社の客員となる。1922年(大正11年)11月、大阪毎日新聞社に運動部が設置されると、大阪医科大学教授を辞任し[3]、運動部長に就任した。1924年(大正13年)にはパリオリンピックに派遣され、2月から10月までヨーロッパに出張。この間の1924年(大正13年)、木下は日本女子スポーツ連盟[注釈 4]を設立[1]、会長となる(事務所は大阪毎日新聞社内に置かれた)。
大阪毎日新聞社運動課長は1926年(大正15年)に星野龍猪[注釈 5]に交替し、木下は編集顧問となった。この時期の大阪毎日新聞社は、1926年(大正15年)3月に人見絹枝(陸上)、1927年(昭和2年)に永井花子(水泳)、原田武一(テニス)、斎藤巍洋(水泳)を運動部記者として迎えている。
1926年(大正15年)に第2回国際女子競技大会(スウェーデン) (1926 Women's World Games) [注釈 6]で団長を務める[3]。1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックに人見を導く。1930年(昭和5年)に第3回国際女子競技大会(プラハ) (1930 Women's World Games) [3]、1934年(昭和9年)の第4回国際女子競技大会(ロンドン) (1934 Women's World Games) [3]でも団長を務めた。1938年(昭和13年)、ロンドンの国際陸上競技連盟総会に首席代表として出席[3]。
日本体育協会[3]、大日本相撲協会[3]、日本自転車連盟[3]などの会長を務めた。
関連項目
脚注
注釈
- ^ 13マイルは約21km。
- ^ 同年2月11日(紀元節)に官立山口高等学校(山口大学の前身)が開催し、各種メディアで報じられた「運動部陸上遠足会」(山口から防府までの11マイルを走った)に触発されたもの。山口高校の運動部陸上遠足会は、日本で初めてメディアが伝えたロードレースとされる。
- ^ この時期、この学校の組織と名称は変遷を繰り返しており、1915年に大阪府立大阪医科大学、1919年に大阪医科大学となる。同時代の『人事興信録』では、大阪高等医学校での職位が「教諭」[5][19]、大阪医学専門学校・大阪医科大学での職位が「教授」。
- ^ 「国際女子スポーツ連盟」の項目に言及がある。
- ^ 探偵小説家としても活動、春日野緑のペンネームでも知られる。
- ^ 国際女子競技大会(Women's World Games)について、日本語文献では「女子オリンピック」「万国女子オリンピック」などの訳語があてられることがある。
出典
参考文献