朝日郎

 
朝日 郎
時代 古墳時代
生誕 不詳
死没 雄略天皇18年(474年8月
特記
事項
伊勢国に勢力を持っていた豪族とされる。
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朝日 郎(あさけ の いらつこ、生年不詳 - 雄略天皇18年(474年8月)は、『日本書紀』に登場する豪族伊勢国に勢力を持っていた豪族とされる。


概要

雄略天皇は474年8月10日、物部菟代宿禰物部連目を遣わし伊勢朝日郎を討たせた。

朝日郎はそれらの官軍伊賀の青墓[1]で迎えて戦った。

朝日郎は弓の名手だった。相手に向かって「朝日郎の相手をするのは誰だ」と言い放った。朝日郎の打つ矢は二重に着込んだ鎧すら貫いたので官軍はひるんだ。菟代宿禰は進撃することができず一晩対峙した。明けて翌日、物部目連が自ら大刀を取り、筑紫の物部大斧手[2]に楯を持たせ、大声をあげて突き進んだ。遠目で見ていた朝日郎は矢を放ち、大斧手の盾と二重の鎧を貫き、さらに体にも負傷させたが、大斧手は楯で死ぬことはなく、ついに物部連目は朝日郎を捕らえ斬り殺した。

一方の菟代宿禰は自分が倒せなかったことを恥じて七日間も命に背いた。天皇は侍臣に「菟代宿禰はなぜに背いているのか」と問うと、讃岐の田虫別が申し出て「菟代宿禰は一晩二日間も怯えていて朝日郎を捕えることが出来なかったのです。そのため物部目連が筑紫の聞の物部大斧手を連れ、朝日郎を捕えて斬ったのです」と告白した。天皇はこれを聞いて怒り、菟代宿禰が持っていた猪名部(工匠の部民、あるいは郡)を取り上げて物部目連に賜った。

《雄略天皇十八年(甲寅四七四)八月戊申【十】》十八年秋八月己亥朔戊申。遣物部菟代宿禰。物部目連。以伐伊勢朝日郎。朝日郎聞官軍至。即逆戦於伊賀青墓。自矜能射。謂官軍曰。朝日郎手、誰人可中也。其所発箭、穿二重甲。官軍皆懼。菟代宿禰不敢進撃。相持二日一夜。於是。物部目連自執大刀。使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。朝日郎乃遥見。而射穿大斧手楯・二重甲。并入身肉一寸。大斧手以楯翳物部目連。目連即獲朝日郎斬之。由是菟代宿禰羞愧不克。七日不復命。天皇問侍臣曰。菟代宿禰何不復命。爰有讃岐田虫別。進而奏曰。菟代宿禰怯也。二日一夜之間、不能擒執朝日郎。而物部目連率筑紫聞物部大斧手。獲斬朝日郎矣。天皇聞之怒。輙奪菟代宿禰所有猪名部。賜物部目連。 — 日本書紀・巻第十四「雄略紀」

脚注

  1. ^ 御墓山古墳に比定する説がある。詳細は該当ページ参考。
  2. ^ 筑紫国企救郡の人。

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