日比野清実

 
日比野 清実
時代 戦国時代
生誕 生年不詳
死没 永禄4年5月13日1561年6月25日
別名 友通
通称:大和守、左衛門尉、修理亮、内匠助
官位 下野守
主君 斎藤道三義龍
氏族 清和源氏義光流日比野氏
父母 父:遠山景前
おつやの方織田信定の娘)
日比野下野守(実名不詳)
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日比野 清実(ひびの きよざね)は、戦国時代武将。美濃国結城(むすぶじょう)主。斎藤氏の家臣。下野守を称した。

略歴

竹腰尚光長井衛安安藤守就日根野弘就氏家卜全とともに「斎藤六宿老」と称された[1]

永禄4年5月13日、織田信長美濃に侵攻した際、長井衛安とともに織田勢を迎え撃つが(森部の戦い)、恒川久蔵によって討ち取られた[2]

その死後、一族は同族で織田氏に仕える日比野六大夫の庇護下に入り、清実の妻、おつやの方は織田家に戻り、政略結婚を繰り返した。

嫡男として、父と同じ下野守を名乗った実名不詳の息子がおり、豊臣秀次事件に連座して自害し、秀次に嫁いでいた娘の於和子も18歳の若さで処刑され、秀次との間の嫡男豊臣仙千代丸も処刑された。[3]

脚注

  1. ^ 山本大小和田哲男『戦国大名家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年8月25日、21頁。ISBN 9784404010766 
  2. ^ 太田牛一 著 中川太古 訳『現代語訳 信長公記』新人物文庫、2013年10月25日、108頁。ISBN 9784046000019 
  3. ^ 清実の没年は1561年のため、1595年で18歳だと計算が合わず、清実の孫娘と推測される

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