方 望(ほう ぼう、? - 25年)は、中国の新代の武将・政治家。司隷扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。出身階層など不詳な点が多いが、漢朝復興を目指した活動家の類の人物と見られる。
事跡
姓名
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方望
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時代
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新代
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生没年
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生年不詳 - 25年(更始3年)
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字・別号
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〔不詳〕
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本貫・出身地等
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司隷扶風平陵県
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職官
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軍師〔隗囂〕→丞相〔劉嬰〕
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爵位・号等
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-
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陣営・所属等
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隗囂→劉嬰
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家族・一族
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弟:方陽
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地皇4年(23年)に隴右[1]の隗囂が群雄の一人として自立すると、隗囂は使者を派遣して方望を軍師[2]として招聘し、方望もこれに応じた。方望は、漢復興の大義を示すため「神道設教」を行うことを進言する。隗囂もこれを容れて邑に東面して廟を建て、高祖(劉邦)・太宗(文帝)・世宗(武帝)を祀るなどした。これに伴い、隗囂は元号を漢復に改め、漢復元年(23年)7月付で漢室復興の檄を各郡国に発した。
漢復2年(24年)に、隗囂が更始帝(劉玄)の招聘に応じて長安へ向かおうとすると、方望は更始帝の前途は未知数と見て、これを諫止する。しかし、隗囂は聞き入れなかったため、方望は手紙を残して隗囂と決別した。
翌更始3年(25年)1月、更始政権の統治が混乱した。そこで方望は、王莽に廃された劉嬰(孺子嬰)を探し出して天子に擁立することで漢朝を復興しようと図り、安陵(右扶風)の人の弓林らを説得して同志に加える。そして劉嬰を長安から探し出し、臨涇(安定郡、現在の甘粛省慶陽市鎮原県)にて天子に擁立し、兵を募れば数千が集まった。方望自身は劉嬰政権の丞相、同志の弓林は大司馬となっている。
しかし、更始帝の命を受けた更始政権の丞相李松・討難将軍蘇茂・定陶王劉祉に討伐され、劉嬰・方望・弓林は戦死し、劉嬰政権はあっけなく滅亡した。
後に、方望の弟の方陽は、更始帝が方望を殺したことを怨んで、華陰(弘農郡)で赤眉軍を迎え、宗室から天子を立てることを進言した。
脚注
- ^ 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋代のわずかな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。
- ^ なお、地位・肩書としての「軍師」に就任した人物としては、この方望が中国史上初と見られる。この他に、『後漢書』登場人物で、明確に「軍師」の地位に就いた人物としては、韓歆(鄧禹配下。『後漢書』鄧禹伝)と皇甫文(高峻配下。『後漢書』寇恂伝)の2人が挙げられる。
参考文献
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