志佐 勝(しさ かつ[1] / まさる[2]、1864年3月13日(文久4年2月6日[1]) - 1928年(昭和3年)3月20日[1])は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍主計中将。貴族院勅選議員。
経歴
肥前国松浦郡福江村(現長崎県五島市福江町)で、福江藩士[3]・志佐明誠の長男として生まれる[1][4]。1874年、長崎の英語学校に入学[2]。
1885年9月12日、官庁主計部員に任官[1]。同年10月、海軍主計補となる[1]。以後、磐城主計長心得、横須賀鎮守府主計部監獄課長心得、扶桑主計長、松島主計長などを務め、1891年12月、松島回航事務取扱委員として仏国に出張し、1892年10月に帰国[1]。その後、海軍省第三局第一課次長、同経理局第一課課僚を経て、1894年7月、近江丸主計長に就任し日清戦争に出征した[1][5]。
以後、旅順口根拠地隊主計部員、吉野主計長、臨時建築部支部員、兼主計官練習所教官、海軍省経理局課員などを務め、1902年5月、海軍主計大監に昇進[1]。経理局第二課長兼主計官練習所長、主計官練習所長兼教官、海軍経理学校長兼教官、佐世保経理部長兼佐世保鎮守府主計長などを経て、1908年12月10日、海軍主計総監に進んだ[1][2][5][6]。1912年5月10日、海軍省経理局長に就任[1][5][6]。1919年9月23日、海軍武官官階表の改正により海軍主計中将となる[1][2]。軍令部出仕を経て、1923年6月1日待命、同年7月1日予備役編入、1926年2月6日に後備役となった[1][2][5][6]。
1923年8月29日、貴族院勅選議員に任じられ[7]、研究会に所属して活動し死去するまで在任した[8]。
栄典
訳書
- ノア・ウェブスター『スペルリング独稽古』慶雲堂、1885年。
- ノア・ウェブスター『スペルリング英語独学』報告堂、1885年。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本海軍史』第9巻、526-527頁。
- ^ a b c d e 『20世紀日本人名事典 あ-せ』1231頁。
- ^ 『20世紀日本人名事典 あ-せ』1231頁では長崎藩士。
- ^ 人事興信所編『人事興信録』第6版、し4-5頁。
- ^ a b c d 『日本海軍将官辞典』321頁。
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』320頁。
- ^ 『官報』第3326号、大正12年8月30日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』128頁。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第3259号「叙任及辞令」1923年6月12日。
参考文献
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『20世紀日本人名事典 あ-せ』日外アソシエーツ、2004年。
- 人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年。