平 知度(たいら の とものり)は、平安時代後期の武将。伊勢平氏、平清盛の七男。官位は従五位上・三河守。
略歴
清盛の七男とされるが母は不明。治承3年(1179年)、治承の政変の後、尾張守から、三河守に遷る。翌治承4年(1180年)、源頼朝を討つべく、甥維盛、叔父忠度と共に大将軍の一人として東国に下向するが、富士川の戦いで敗北を喫し帰京。翌治承5年(1181年)に参加した墨俣川の戦いでは源行家らの軍勢に勝利を納めるが、寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに参加した際、源義仲軍に壊滅的な敗北を喫する。この際に知度は、源親義・重義父子と交戦して相打ちとなり、戦死を遂げた(あるいは自刃したとも)。清盛に連なる平家一門において最初の戦没者である。ただし討死したのはその直後の篠原の戦いとする説もある。
石川県河北郡津幡町にはその首塚と伝わる石碑が現存する。なお、『系図纂要』はその子に重義を挙げるが、上述の岡田重義を知度の子と読み違えた誤謬とみられる。
画像集
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史跡平知度首塚全景(平成11年11月吉日記述有、奥に平清盛松、広島県音戸町より寄贈)
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平知度首塚(石川県)(石川県河北郡津幡町緑が丘2‐201杭の右手登る)
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平知度首塚説明板+奮戦図(説明原典源平盛衰記、図石川県・津幡広島ライオンズクラブ姉妹提携記念)
官暦
時期不詳 従五位上、尾張守 治承三年 三河守
外部リンク