小野 牛養(おの の うしかい)は、奈良時代の貴族。官位は従四位下・皇后宮大夫。
経歴
元正朝初頭の霊亀2年(716年)従五位下に叙爵。
聖武朝初頭の神亀元年(724年)3月に海道(東北地方の太平洋沿岸地域)の蝦夷が起こした反乱を鎮圧するため[1]、4月に任ぜられた持節大将軍・藤原宇合、副将軍・高橋安麻呂に続いて[2]、5月に牛養も出羽国の蝦夷征討のため鎮狄将軍に任ぜられる。この遠征による成果は明らかでないが、同年11月末に宇合と牛養は平城京に帰還している[3]。翌神亀2年(725年)閏正月に遠征した将軍らに対する叙位叙勲が行われた際、藤原宇合や高橋安麻呂は叙位叙勲を受けている。一方で、牛養は少なくとも叙位が行われた形跡がないが、天平年間には勲五等を持っていることから、この時に勲五等の勲位のみを与えられた可能性もある。
神亀5年(728年)正五位下に叙せられ、翌天平元年(729年)2月に発生した長屋王の変に際しては、右中弁として長屋王に対する罪状の糾問に参画している[4]。同年8月に従四位下に叙せられ、9月に聖武天皇の夫人・藤原安宿媛が皇后に冊立(光明皇后)されると、牛養は皇后宮大夫に任ぜられこれに仕える。天平2年(730年)には催造司監を兼ねて平城宮の造営も担当した。
天平11年(739年)10月5日卒去。最終位階は従四位下。
官歴
『続日本紀』による。
脚注
- ^ 『続日本紀』神亀元年3月25日条
- ^ 『続日本紀』神亀元年4月7日条
- ^ 『続日本紀』神亀元年11月29日条
- ^ 『続日本紀』天平元年2月11日条
- ^ 『大日本古文書(編年文書)』1巻553頁
参考文献