宮里 栄輝(みやさと えいき[1] 、1898年(明治31年)3月2日[2] - 1984年(昭和59年)1月10日)は、日本の政治家。沖縄県真和志市(現・那覇市)長。立法院議員。
来歴
沖縄県真和志間切(のち島尻郡真和志村→真和志市、現・那覇市)与儀に生まれる。沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を経て、熊本の第五高等学校に入るが[2]、1年で中退する[3][注 1]。東京の私立大学(大学名不明)に入るが、ここも中退した[3]。その後は沖縄県立図書館に勤務する[1]。以後は沖縄文化の研究に没頭する。1940年に図書館を退職[4]。翌年開南中学校講師となる[5]。1942年、小学校教師の石川初子と結婚する[5]。1945年、熊本に疎開し、終戦を迎える[5]。終戦後は沖縄県の疎開者の生活を守る活動をし、沖縄人連盟の九州本部の会長に選ばれ、1946年に沖縄に戻った[6]。1947年、沖縄建設懇談会の発起人となる[7]。
1948年、真和志村村長選挙に立候補したが、翁長助静に敗れ落選[6]。同年の村議選で当選[6]。1950年の村長選に立候補したが、現職の翁長に1票差で敗れた[6]。しかし、宮里側は裁判所に異議申し立てを行い、当選が認められ、村長に就任した[6]。1953年真和志村は市制施行し、初代市長となる[6]。翌年の市長選挙で再び立候補した翁長に敗れた[8]。1956年、立法院議員選挙に第16区から立候補し、当選する[8]。1958年の立法院議員選挙では妻の初子を立候補させ、当選した(1960年の選挙で落選)[8]。1960年の那覇市長選挙に立候補したが落選した[8]。
その後は琉球政府文化財保護委員長、沖縄歴史研究会会長[9]、那覇市政革新共闘会議議長、琉球政府公安委員長、同中央教育委員、日中友好沖縄県民会議議長などを務めた[10]。
親族
- 妻、宮里初子 - 立法院議員(女性初)。
- 長男、宮里一夫
- 次男、宮里千里 - 元那覇市職員、同職員労組委員長、古書店経営者。
脚注
注釈
- ^ 『沖縄県姓氏家系大辞典』217頁では「卒業」。
出典
- ^ a b 『沖縄県姓氏家系大辞典』217頁。
- ^ a b 『<ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』224頁。
- ^ a b 『<ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』225頁。
- ^ 『<ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』227頁。
- ^ a b c <ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』228頁。
- ^ a b c d e f <ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』229頁。
- ^ 山城善光「沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火 第1章 言論の自由への闘い」『琉球新報』1982年3月25日。
- ^ a b c d 『<ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』231頁。
- ^ 『<ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』232頁。
- ^ 『<ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』233頁。
参考文献
- 沖縄県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会 編著『沖縄県姓氏家系大辞典 角川日本姓氏歴史人物大辞典47』角川書店、1992年。
- 宮里一夫著『<ウチナー>見果てぬ夢―宮里栄輝とその時代―』ボーダーインク、1994年。
|
---|
1954年9月1日編入 |
|
---|
1957年12月17日編入 |
|
---|
官選 |
|
---|
区会選任制 |
区長 |
- 喜入休1908.5.15-1911.7.29
- 当間重慎1911.9.16-1919.11.1
- 山城正馴1919.11.9-1921.5.19
|
---|
|
---|
官選 | |
---|
米軍統治下 | |
---|
公選 |
- 平良良松1972.12-1984.11
- 親泊康晴1984.12-2000.11.30
- 翁長雄志2000.12.1-2014.10.3
- 城間幹子2014.11.16-2022.11.15
- 知念覚2022.11.16-
|
---|
カテゴリ |