大野 徳孝(おおの のりたか、嘉永4年12月18日(1852年1月9日)[1] - 1931年(昭和6年)2月15日[2])は戦前日本の教育者。三重県師範学校校長、第三高等学校教授、高知県立第一中学校校長。旧桑名藩士。幼名は滋三郎[3]。王陽明に私淑し、王乗鷹と号した[4]。従四位勲四等。
経歴
嘉永4年12月18日(1852年)[1]、桑名藩士関根勇右衛門の三男に生まれ、同藩士大野竜平の養子となった[3]。藩校立教館に学び、明治維新後東京に出て、安井息軒家塾で漢学を学び[3]、また藩主松平定教と共に加藤桜老に英語、数学を学んだ[4]。
明治8年(1875年)3月東京師範学校小学師範学科を卒業[5]、大阪師範学校一等訓導を経て[6]、明治10年(1877年)、華族学校創立に当たり教授兼主事となった[4]。
明治12年(1879年)大阪専門学校に転任し、修身、漢文を教えた[4]。明治19年(1886年)文部省専門学務局第一課長、明治21年(1888年)三重県師範学校校長兼学務課長[4]。明治23年(1890年)2月25日第三高等中学校教諭として京都に移り、7月1日幹事、8月16日舎監兼教授[1]、また庶務主任等を兼ねて漢文を教授し[4]、明治44年(1911年)1月7日病気のため依願退官した[1]。
明治44年(1911年)3月18日鉄道院西部鉄道管理局に配属された後[7]、高知県立第一中学校長に任命され、大正4年(1915年)老齢のため退職、京都に帰った[4]。
晩年は大日本武徳会監事兼常議員、一徳会評議員[4]。昭和2年(1927年)初、脳を病み、家に篭もるようになった[3]。
子の大野徳風は岐阜県吉城郡船津町神岡水電勤務[8]。
栄典
著書
- 『下等小学作文階梯』巻之1・同附録、浅井吉兵衛、明治9年(1876年)
- 『小学顆算階梯』、諸葛信澄、明治10年(1877年)
- 工藤一記、佐野安共著『小学勧懲叢談』、菅沼義也、明治12年(1879年)
- 『評註支那時文読本』、大日本図書、明治37年(1904年)
- 『冠註高等支那時文読本』、文求堂、明治38年(1905年)
- 『乗鷹存稿』、大野徳風、昭和3年(1928年)
脚注
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
大野徳孝に関連するカテゴリがあります。