大江 忠成(おおえ の ただしげ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の評定衆。大江広元の五男。別名海東忠成(かいとう ただしげ)。
生涯
広元から尾張国海東郡を与えられ、海東を名乗る。尾張国の熱田神宮大宮司の養子に入り、承元2年(1208年)大宮司となった[4]。承久2年(1220年)熱田神宮の大宮司職を辞したが、承久3年(1221年)嫡男の忠茂が幕府の影響力を背景に大宮司となった。
1245年(寛元3年)、鎌倉幕府の評定衆となり、鎌倉幕府の政務に携わった。しかし、1247年(宝治元年)の宝治合戦で、兄の毛利季光が三浦氏側に味方して敗死したため、それに連座して評定衆を罷免された[6]。
1265年(文永2年)、京都において死去。
脚注
- ^ 『吾妻鏡』寛元三年八月大十五日丁丑。
- ^ 「張州雑志抄」所収「熱田大宮司系譜」、『大日本史料』6編15冊682頁
- ^ 「吾妻鏡」六月十一日条、「関東評定伝」、『大日本史料』5編22冊177頁。
参考文献
関連項目