Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page
Available for Advertising

土岐頼兼

 
土岐頼兼
時代 鎌倉時代末期
生誕 不詳
死没 元亨4年9月19日1324年10月7日
別名 土岐十郎(通称)
墓所 岐阜県瑞浪市土岐町2752
官位正四位
幕府 鎌倉幕府六波羅探題
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼貞、母:不詳
兄弟 頼直、高頼(妙光)、乾道謙、舟木頼衡、墨俣頼連(周崔)、頼清(頼宗)頼遠、頼仲、長山頼基頼兼、頼里、頼明
不詳
明智頼重(養子)
テンプレートを表示

土岐 頼兼(とき よりかね)は、鎌倉時代末期の武将土岐頼貞の十男。

概要

元亨4年9月19日(1324年10月7日)一族の頼員(舟木頼春)、多治見国長足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らとともに後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝俊基の招聘に応じて入京した。

太平記』巻一「頼員回忠事」によれば、頼兼らは三条堀川の宿所で、公家の尹師賢四条隆資洞院実世平成輔、伊達優雅、法眼玄基も交えて無礼講による終夜の酒に酔っていたが、頼員がうかつにその計画を六波羅探題の奉行の斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露見し、六波羅探題の配下である小串範行らによって夜襲を受けた。

頼兼はこの急襲の声に驚いて慌て騒いで、無防備であったが、共に寝ていた物馴れた遊女の機転によりを身につけ、寝入っている者を起こすことができたという。頼兼は国長とともに少数の手勢を率いて六波羅の山本時綱の軍勢と奮戦したが、最終的には館の裏手を突破されたことから観念し、自害して果てた(正中の変)。

頼兼の墓は、鶴ヶ城の東700mのところに位置し、自仞洞(じじんぼら)と呼ばれる山中に宝篋印塔2基と五輪塔4基がある。

1905年11月18日、正四位を追贈された[1]

脚注

  1. ^ 『濃飛偉人伝』(岐阜県教育会、1933年)51頁

関連項目

Kembali kehalaman sebelumnya