啓定(けいてい、カイディン・Khải Ðịnh)は、ベトナム阮朝の啓定帝の治世で使用された元号。1916年 - 1925年
改元
出来事
1917年から1919年(啓定2-4年)までインドシナ総督を務めたアルベール・サロー(フランス語版)の協同主義政策のもとでベトナム人知識人層が育まれ、植民地政府での現地人官僚の採用や科挙廃止(1919年)、フランス語およびクオック・グー教育の推進といった教育改革などが行われた。このようにして形成された新生知識人層による政党設立が行われ、代表的なものとして1923年結党の立憲党が存在する。しかしながら後任の総督たちは一転して弾圧策に転じ、教育や思想に対する厳しい制限・検閲が実施されることとなった。弾圧への幻滅・反感から前述の立憲党のような親仏派の政党は衰退していき、代わりに1925年(啓定14年)にホー・チ・ミンが広東で結成したベトナム青年革命同志会(ベトナム語版)などの反仏派の活動が盛んとなり、1924年(啓定13年)には当時のインドシナ総督マルシャル・メルラン(フランス語版)暗殺未遂が起きている。このような反仏運動に対し植民地当局はファン・ボイ・チャウ逮捕(1925年)など厳しい弾圧を加えるが、反仏運動は次の保大に至るまで続いた。
出典
旧暦4月15日(5月16日)に内閣が提出した元号案のひとつに「啓衷」の2文字があった。啓定帝は「啓」の字を朱で囲い、「衷」の字を消して「定」に替えた。内閣は「啓定」を「安寧と平和の始まり」と解釈し、また典拠として「大啓爾宇、克定厥家」(『詩経』)および「霊命重啓、蕩定有期」(『周書』)を見出した[7]。
西暦との対照表
脚注
- ^ 鄧玉瑩 (1916). “L'INTRONISATION DE L'EMPEREUR KHAI-DINH [啓定皇帝登基]” (フランス語). Bulletin des Amis du Vieux Hué - BAVH 1916 (1): 7. https://ia600608.us.archive.org/29/items/40BAVH/16_1BAVH.PDF. "Le service du Nội-Các a informé le Conseil, le 15e jour, que, parmiles noms choisis, se trouvaient les deux caractères Khải-Trung 啟衷. Le Prince a tracé un cercle rouge autour du caractère Khải 啟, et, après avoir biffe le caractère Trung 衷, il a écrit le caractère Định 定.
Le service du Nội-Các demande en conséquence que le choix du nom de règne soit, comme le Prince en a manifesté le désir, porté sur les deux caractères Khải-Định 啟定 « Commencement de la paix stable ».
Le Thi Kinh dit : Đại khải nhĩ võ khắc định khuyết gia 大啟爾宇克定厥家 « Les limites du Royaume s'ouvrent, grandissant, la paix règne dans le pays ». Les Annales des Châu relatent : Linh mạng trùng khải đảng định hữu kỳ 靈命重啓蕩定有期. « Le mandat du ciel de nouveau s'ouvre, le Royaume jouira un beau jour de la paix féconde. »"
参考文献
関連項目