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和田尊義

和田 尊義(わだ たかよし、1876年明治9年)8月1日[1] - 1910年明治43年)10月17日[2][3])は、明治時代の政治家衆議院議員

経歴

和田治太郎義尚、藤の長男として土佐国長岡郡小蓮村(岡豊村小蓮を経て、現在の南国市)に生まれる[1]。初代彦五郎から続く地元の資産家[1]1897年(明治30年)高知尋常中学校を卒業し、第三高等学校に入学するが、病気を理由に中退[1]1902年(明治35年)6月から1905年(明治38年)3月まで母校の高知県立第一中学校で教諭心得を務める[1]。この間、テニス部ボート部の指導に当たり、1904年(明治37年)には京都武徳会端艇競漕会で全国優勝を果たした[1]

その後、岡豊村教育兵事長、土佐農工銀行専務を経て、1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙に高知県郡部から出馬し当選するが、在任中に結核により没した[4]

親族

脚注

参考文献

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