吉見 隆頼(よしみ たかより)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。石見吉見氏10代当主。
出自
石見国の国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。
生涯
明応8年(1500年)、吉見頼興の次男として誕生。永正7年(1510年)8月17日、長兄・興成(成興)が早世(享年17)したため嫡子となる。隆頼[注釈 2]の名乗りは主君の大内義隆より偏諱を受けたものである。大内義興の娘・大宮姫(義隆の姉)を娶る。享禄5年(1532年)4月12日に父・吉見頼興の死去を受け、家督を継承した[2]。
天文9年(1540年)10月16日、先祖ゆかりの源御社(津和野木曽)に参詣したが、その後に向かった山口に滞在中に、何者か(山賊)に殺害され死去、享年41。家督は僧籍にあった弟・正頼が還俗して継いだ。
性格的には文化人であったようで、天文7年(1538年)に先祖ゆかりの地である津和野に「祇園会」を復活させるなど、事績にもその一面が窺える。
脚注
- ^ 死没年月日を天文8年2月7日とする文献もある。
- ^ 一部で別名を頼隆(よりたか)とするものもあるが、これだと「隆」を二文字目におくことを許されたことになる。義隆の義兄という立場から言えば考えられなくもないが、偏諱授与の風習から考えれば「隆頼」の方が筋が通っている。
参考文献
外部リンク