吉田 庄一郎(よしだ しょういちろう、1932年8月25日 - )は日本の光学設計者、実業家。元ニコン社長・会長。東京府出身。
ニコンでは日本企業として初めてステッパーの製品化を実現したことで知られる。
略歴
- 附属中・高の同期には、嘉納行光(元全日本柔道連盟会長)、藤井裕久(元財務大臣)、小林信彦(小説家)、鈴木淑夫(元日本銀行理事)、徳山明(元富士常葉大学学長)、中江陽三(元NHKアナウンサー)などがいる。
著書
ステッパー
ニコンの参入以前、ステッパーの市場は事実上アメリカのGCA社が寡占している状態だった(文献によればシェアが90%以上に達していたとも伝えられる[2])。しかし日本でも、1976年に超LSI技術研究組合が設立され本格的な超LSIの開発に向けた研究が進められていく中で、半導体製造装置についても国産化が強く求められた。
それまでのステッパーでは、半導体ウェハーとフォトマスクの縮尺が1:1(ウェハー1枚分の回路がそのままフォトマスクに作られていた)となっていたが、半導体製造プロセスの微細化が進むにつれそれに対応した精度を持つフォトマスクの製造が困難になりつつあった。そのため超LSI技術研究組合では、半導体チップ1個分のフォトマスクを本来のチップサイズよりも数倍大きなサイズで作成した上で、フォトマスクを光学的に縮小しながらチップ1個分ずつウェハー上に転写していく「ステップ・アンド・リピート方式」への転換が必要との認識が高まり、光学系の技術のあるニコンでも新規事業への参入を検討していたところであったことから思惑が一致し、ステッパー市場に参入することになった[3]。
当時ニコンで精機事業部精機設計部と精機営業部双方のゼネラルマネージャー(一般企業での課長級職とのこと[3])を兼務していた吉田はその開発責任者となり、1980年に初めて国産ステッパー1号機「NSR-1010G」を製品化。1980年代に急速にGCAを駆逐してシェアを拡大し、一時ステッパー業界で世界シェアNo.1を記録するまでに至った[2]。
しかし1990年代後半になると、ステッパー市場でオランダのASMLが急激にシェアを伸ばし、ニコンは世界シェアトップの座から転落してしまう[2]。この時期吉田はニコンの社長・会長となっていたが、かつて自らが育て上げたステッパーに関して言えば売上を伸ばせず苦しい経営を強いられた。一方でステッパーに関する特許侵害で2001年にはASMLを提訴し、2004年9月にASMLおよびカール・ツァイス両社から約160億円の和解金を受け取ることで和解が成立、事実上の勝訴を勝ち取った[4]。吉田はこれを花道に翌年に同社相談役に退いている。
脚注
関連項目